Recollection.1 悠長な患者
七海が明人と出会ったのは、医大を卒業したばかりの年だ。
春から始まった研修医生活も5ヶ月目。
教科書とは全く違う臨床現場に戸惑いながらも、ようやく慣れてきた頃だった。
「お次の方、どうぞ」
その頃、七海は外科の研修中だった。
今は午後の救急外来。
診察室のドアを開けて入ってきたのは、似通った年恰好の男性。
派手な色の髪。
派手な色のシャツ。
肩が凝りそうなほどぶら下がった装身具。
「すみませーん、ハサミで切っちゃったんですけど」
白いタオルで左前腕をぐるぐる巻きにして入ってきた男は、およそ怪我人らしくなくへらへら笑っていた。
(笑えるくらい元気だったら、普通の外来時間まで我慢しろよ)
午後の通常診療が始まるまで、後30分ほどだった。
七海は昼休みを研修名目で潰され、無償でこの時間の当番を務めていた。
そんな事は研修医にとって珍しくも何とも無い。
誰でもさせられることだ。
しかし、本来緊急を要する患者の為に開かれているはずの救急外来に訪れる患者の97%は軽症。
ほとんどが、いわゆるコンビニ受診だ。
そういう現実のギャップに、少々辟易していた。
だからこの時も、へらへら笑いながら入ってきた軽薄そうな服装のこの男を、「典型的なコンビニ受診」とタカをくくってあたった。
何故なら、当時の七海は、頭でっかちなだけの鼻持ちならない若造でしかなかったからだ。
そういう患者の中に本当の重症者が紛れ込んでいる事や、各個人がそれぞれに抱える社会的な背景など到底理解出来ていなかったのだ。
「お名前は……津守さん、ね。いつ切りました? 傷口見せてくださいね」
やれやれ、という心の声を抑えつつ、七海は診察を開始した。
「ついさっき。えーと、ここに来るのに10分かかって、待合10分待ったから…20分くらいだと思うけど」
男はどこまでも暢気だった。
(この様子じゃ、開けてみたら血が止まってるパターンかな……)
浅い切創による抹消血管の出血なら、20分も待てば自然に止まる。
(大体、ハサミだろ? カミソリとか、包丁じゃなくて。ハサミでそんな深い傷なんかできるか?)
溜息を吐きそうになりながら、七海は左腕に巻きついているタオルを捲った。
「……っ!」
もう少しで声を上げるところだった。
血は止まっているどころか、今もなお鮮血が噴き出している。
しかも、その色はやたら鮮やか。
(動脈血だ…!!)
七海は、一旦開いたタオルを、慌てて閉じる。
(手袋? 駆血帯? 何だっけ、何が必要なんだっけ)
咄嗟に対応が思いつかない。
そりあえず、タオル越しにそのまま、右手で強く傷口を押さえた。
(あ、そうだ! 止血点の圧迫!)
空いている方の手で、腋の下付近にあるはずの止血点の検索を開始した。
しかし、図面と模型でしか知らない人体アトラスはてんで役立たずだった。
印も記号も無い生身の身体のどこにそれがあるのか分からない。
「すみません、誰か…看護師さん! 感染予防の手袋と、滅菌ガーゼ、キシロカイン…あ、先に水! 切創洗浄する水お願いします!」
傷口を手で押さえたまま、七海は看護師を呼んだ。
実は、上級医のいない状態で、本当の緊急事態に遭遇した事は、未だあまり無い。
危うくパニックを起こす寸前だ。
「津守さん、何で早く言わないんですか! 動脈切れてますよ!!」
それにしても、タオルにはそれほど血が染み込んでいないのは何故だろう。
これほど出血し続けていたのなら、もっとタオルは血で濡れているはずだ。
「ありゃりゃ…気付かなかった。なかなか止まらないなぁとは思ってたんだけど」
重傷患者は、空いている方の手で暢気に頭を掻いている。
「津守さん、傷口に巻いてたホントにタオルこれだけ!? 他にありませんか!?」
出血速度と出血量が合わない。
よく見たら、暢気な態度に反して顔色はすこぶる悪い。
「あぁ、申し訳無いとは思ったんだけど、最初に巻いてたタオル、べしょべしょになったから新しいのに取っかえて、外のごみ箱に捨てちゃった」
予想外の答えに、七海は一瞬頭が真っ白になった。
「ばかぁっ! それじゃどれだけ出血してるか分からないじゃないか!」
思わず口から飛び出してしまった一言。
「常盤木先生、患者さんに向かって"ばか"って言っちゃだめですよ。それと、腋下の止血点は、この辺りです」
七海の背後から、すこぶる冷静な声が聞こえた。
ベテラン看護師の田島夏枝だった。
救急看護のエキスパートで、外科の主任看護師だ。
彼女は素早く七海の手を目的の場所へ導いてくれた。
中堅医師でもなかなか歯が立たない実力者で、研修医からは指導医より怖いと影で恐れられている人物だ。
だが、少々厳しいところがあっても的確なアドバイスをくれるこの看護師を、七海は頼りにしていた。
「…すみませんでした。でも、正確な出血量が分からなくなるので、申し訳無いですが、そのタオルどこに捨てたか教えてください」
ついうっかり怒鳴りつけてしまったことを素直に謝り、大量の血液を吸ったはずのタオルの所在を、七海は訊ねる。
「あー…えーと、待合に一番近いトイレ」
男は罵倒された事を怒ってはいない様子だが、その分呆気にとられて茫然としていた。
「誰か手は空いてるかしら? そのトイレにタオル拾いに行ってちょうだい」
後ろに数人控えているであろう看護師に、田島が声を掛けた。
「常盤木先生、田島さん、そこ、男子トイレですよね? おれ、行ってきますよ」
隣で会話を聞いていた男性の検査技師が、気を利かせて声を掛けてくれた。
「ありがとうございます」
七海は必死で止血点と傷口を押さえながら、検査技師に小さく頭を下げた。
結局、津守明人の総出血量は、おそよ400mlほど。
献血に行ったくらいの量だった。
ギリギリ輸血を免れるか、否か。
点滴で電解液を入れ、出血分の体内水分を補填。
血圧が上がり過ぎると止血の妨げになるので、スピード調整が難しい。
止血するのを待ち、止血が確認できたら縫合だ。
縫合は比較的得意な作業だった。
切創の大きさは、切ったという割には幅が狭く、むしろそれは刺創 刺し傷に近かった。
(午後の外来開くの待たれてたら、危なかった…)
七海はこっそり安堵の溜息を落とした。
成人の致死出血量は体重のおよそ16分の1。
平均的には、500mlのペットボトル二本分と言われている。
彼はその時、致死量の半分近い出血をしていたのだ。
"徒歩で訪れる一見元気そうな患者が、軽症とは限らない"
津守明人は、その格言に表される典型的な患者だった。
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七海が研修医だった頃、桜川病院に正式なERは無かった。
二次救急指定病院として、その時々の当番医が救急診療に当たっていた時代である。
当然、何科の医師が当番かはもう運頼み 心臓発作で来院したのに、出てきたのは脳外科医でした、というのも、もう運でしかないのだ。
医師は病気なら誰でも何でも診れると思われがちだが、万能選手はむしろ稀少。
言葉は悪いが、本来、医師という人種は専門バカの方が多い。
もし、あの時、津守明人が午後の診療を待って、その間に多量出血性のショックにでも陥ろうものなら、当番医によっては対応し切れず、手遅れになっていただろう。
万が一、"切り傷くらい午後から来い"などと言っていようものなら、どうなっていただろうか。
それは、後から考えれば考えるほど怖い症例だった。