Recollection.27 綻びる箱

 短い期間ですっかり通い慣れてしまった部屋。
 明人は部屋に戻るなり、敷きっぱなしの蒲団の上に座った。
「一休みすっかなー」
 大きく身体を伸ばして、彼は欠伸を一つ零した。
(仕事して、その後徹夜で運転してたんだもんな…明人も疲れてるはずだ)
 しかし、七海は、寝るどころではない。
 恭介から預かった資料を、鞄の中から引きずり出す。
 明日までに全ての資料を整理して、恭介に届けなければならない。
「…七海、寝ないの?」
 怪訝そうに明人が七海の背後ににじり寄って来た。
 そして、ごく自然に明人の腕が七海の首に絡まる。
 てっきり寝るものだと思っていたので、その間に仕事を片付けるつもりだった七海には、少々誤算だった。
「ちょっとね。…て、何してるんだよ。明人こそ、寝ないの?」
「何って、スキンシップ  昨日できなかったし」
 それしか考えてないのか。
 この男は。
 七海は深々と溜息を吐いた。
「…七海、何してんの?」
 怪訝そうな顔で明人が、七海の背中にピタリ胸をくっつけて、その手許を覗き込んできた。
「ん、だから、ちょっと…」
「何だよ、それ。…仕事?」
「…まあ、そう…」
「ふーん」
「…………………」
(ん…?)
 何か、生温かい感触が。
 仕事だと言ってるのに、明人の手は無遠慮に七海のシャツのボタンを外し始めていた。
「って、だから! そんな事してる暇ないんだって!」
 服の中に滑り込んでくる掌を、慌てて掴み止めた。
「七海がお仕事してたら、俺つまんねぇんだけど」
 何を子供みたいな。
 そう思っている間にも、明人が首筋に口唇を這わせてきた。
「ヤろうよ。せっかく休みなんだし」
「ちょ…っと、やめろって」
 身体を捩って、明人から離れようと試みる。
 既にシャツのボタンは全て外されていた。
「ヤだね」
 背後から纏わりつく腕は、より強い力で七海を捉まえた。
 いつもなら、さほど気にならない明人の強引さが、この時ばかりは七海をひどく苛立たせた。
「明日までに終わらせないと、シャレにならないの!」
 七海は、服を剥がしにかかっている明人の手を払い除けた。
「何かお前ってさ、そういうの多くね? どこからプライベートで、どこまで仕事なわけ?」
 明人が眉を顰めた。
「研修医なんてそんなもんなの! 通常の勤務時間が終わっても、研究だの研修だのレポートだの次から次から  
 乱れた服の前を掻き合わせ、資料の束に手を掛ける。
「じゃあ、辞めちゃえよ。お前の話聞いてると、しんどいだけみたいじゃん。そんないつも疲れてピリピリしてるくらいなら、医者なんか辞めちゃえよ」
 明人が七海の手ごと資料の束を押さえた。
 むかっときた。
 誰のせいでピリピリしてると思ってるんだ。
「そういう問題じゃないだろ!」
「じゃあ、どういう問題だよ!」
 シャツの襟を掴まれ、引き上げられた。
 視線を合わせた彼の顔は、珍しく笑っていなかった。
「放せ…って、ば!」
 七海は、本気で明人の腕を振り払った。
 ところが、振り払った反動でバランスの崩れた身体を、そのまま座卓の上に押しつけられる。
 資料の束と筆記用具が七海の身体に押されて、派手に散らかった。
「何すんだよ! せっかく順番に纏めてあったのに  
 いきなり乱暴な動作で押し倒され、七海は明人を睨み上げる。
「お前さぁ、ウチん中にまで仕事持ち込むのはやめろよな」
 そう言った明人の顔は、彼らしくない、冷ややかな顔。
 明人もまた、苛立っているのが伝わってきた。
「そんなこと言われても…毎日、会ってるだろ。僕なりに時間は作ってるよ」
 抗議する声が少し嗄れていた。
 初めて見せられた明人の怒りに、自分が怯んでいるのを感じた。
「確かに、毎日顔くらいは合わせてるよ。でも、それって仕事の合間に自販機で缶コーヒー1本飲む程度だろ。そんで10分か15分か無駄話して終わりだろ。チュウガクセイのオママゴトじゃねぇっつの」
「逆に言わせてもらうけど、たまの休みって言えばそんなことばっかりじゃないか。そっちこそ、人の顔見る度にヤることしか考えてないのか」
 外で会う時はともかく、この部屋にいると、いつもそんな事をしてる。
 まるで、それだけが目的のような気になってしまうくらい。
 本音を言うなら、少し引っかかっていた部分だ。
「……お前さ、枯れてるオッサンじゃあるまいし、そう我慢の利くもんでもねぇんだぞ」
 呆れたような、冷めたような視線が真っ直ぐ七海を刺した。
「わかっ  
  ってねぇよな。大体さぁ、好きだったら抱きたくなんのってフツーじゃねぇの? それでも、七海が忙しいのは分かってるつもりだし、これでもかなり譲ってんだ。俺は」
「明  
「それにお前、車ん中とか外とか嫌がるだろ。そしたら俺の部屋くらいしかねぇだろうが。そこへ仕事持ち込むのだけは勘弁してくれよ。ただでさえ時間無いんだから、せめて一日休みで一緒にいる時ぐらい、俺の事だけ考えろよ」
 明人は、本気で怒っていた。
 彼は彼なりに、多忙な七海の勤務状態に精一杯合わせてくれていたのだ。
 言われるまで、全く気付かなかった。

 でも  

 明人は、大きく一つ溜息を吐いた。
「ま、いいや。仕事済んだら電話して。それまで俺、出掛けてくるわ」
 戒めていた七海の身体を放し、立ち上がる。
  明人、」
 七海の言葉を聞かずに、明人はさっさと部屋を出て行ってしまった。
 閉じられたドアは、そのまま二人を隔てる壁になった。
 薄いベニヤのドア一枚隔てた向こうが、とてつもなく遠い。

 明人の言い分は分かる。
(分かるけど  
 いや、分かっていなかったのかもしれない。
(でも  
 それでも、七海にだって言い分はある。
 明人はそれも聞かずに出て行ってしまった。
「何の為に、無い時間を無理して会いに来ると思ってんだよ」
 明人が消えたドアに向かって、届け損ねた言葉をぶつける。
 仮眠する時間も、休憩も、ほとんど明人の為に使った。
 2週間、まともに眠れた時間はほとんど無い。
 体力も、気力も限界に来ている。
 それでも  
「少しでも会いたいからじゃないか! なんでそんな事が分からないんだよ!」
 どれだけ言葉を連ねたところで、閉じられたドアは沈黙して動かない。

 掴み上げられた襟が、ひどい皺になっている。
 七海は、情けない気持ちになりながら、その襟を手で伸ばした。

(そうだ。会いたかったんだ)
 七海自身が、明人に会いたかった。
 怒らせて、初めて自覚した。
 明人が、好きだ。

「…ばか…っ」

 馬鹿なのは、自分なのか。
 明人なのか。

 足許に散らかった白い紙の束を、のろのろと拾い集める。
 明日にはこれを提出しなければならない。

 俯いた頬に、涙が伝う。
 悔しいのか。
 悲しいのか。
 腹立たしいのか。
 よく分からない。

 収拾のつかない感情の波間で、ようやく生まれた気持ちが溺れている。

(……好き、なんだ)

(やっと、分かったのに…)

  どうして、こんなに……痛いんだろう。


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