Recollection.33 明日の行方Ⅲ

 夕風を切るように鳴り響いたのは、携帯の呼び出し音だった。
 ついさっき明人に手渡され、そのまま手に握っていた携帯を反射的に確認する。
「病院だ」
 慌てて鞄の中のポケベルもチェック。
 病院を出てすぐ  
 #8  緊急要請。
 いわゆるコード・ブルー、或いはコード・レッドである。
「何だよ、もう仕事終わってんじゃないのか?」
 明人が話を切られて不機嫌な顔をしている。
 携帯を持っている方の腕を掴まれ、通話ボタンが押せない。
 彼は、#8から始まるコードの意味を知らない。
 だから、緊急事態だと分からない。
 七海は、明人の腕を無理やり振り解いた。
「離せ! 第一外科、常盤木です」
 受けた電話は、すぐさま初療室に繋がれた。
『常盤木先生、出るの遅いわよ! #8コードは最緊急って言われてるでしょ!』
 受話器の向こうは田島だ。
「すみません」
『高速道路で観光バスとトラックの衝突事故発生、負傷者のうち13名をうちで受け入れます。近くにいるなら、すぐ戻って下さい!』
「え  
 衝突事故。
 多数の負傷者。
(あの日と同じ…)
 それは、父親を事故で亡くしたその日と、容易にリンクした。
(あんな無力感、二度と味わいたくない  
 指の隙間を擦り抜けるように誰かの命が滑り落ちる。
 その瞬間の絶望。
 閉じた振りをしていた傷口が、心の中で大きく口を開ける。
 あれほど無力を感じた日も、
 憤りを感じた瞬間も、他に無い。
『何を躊っているの!? 一秒も無駄に出来ないのよ?
 運ばれてくる患者のうち、2人は既に心肺停止、レッドタグが付いてる! ホントなら高度救命センターの方へ搬送してもらいたいところだけど、あちらも満床。うちで受け入れる他ない。
 うちも日直のスタッフが退勤してしまって十分な人数が確保できていないの。
 とにかく、近くにいるなら戻ってきてちょうだい』
 逼迫している現状が、携帯を通して伝わってくる。
 今、救急車の中で病院へ搬送されている人たちは、そこへ辿り着きさえすれば助かると信じている。
 いや、まず必ず運び込んで貰えると信じている。
 その、無意識に抱いている期待を裏切られる事など、想像もしていない。
 そんな期待と、それを裏切られる絶望を、引き受ける事が出来るだろうか。
 そこから生まれる悲憤を、受けとめる覚悟が出来るだろうか。
「七海、そんな顔してるくらいなら、携帯切っちまえ」
 どんな顔をしているのだろう。
 横から、明人が眉間にしわを寄せてそう言った。
『常盤木先生? 誰かと一緒なの?』
 問い質す田島の声が、七海の耳から離れてゆく。
 明人が、携帯を取り上げたからだ。
「七海…いいじゃん。何回も言ってる。やめちまえって」
「携帯、返せよ!」
 明人の手から、携帯を引き戻す。
「そんな痛い顔して、何でやんなきゃなんねぇの? もっと、楽しくたっていいじゃん。何でわざわざ辛くなりにいく訳?」
 目の前で明人が、七海の一番痛い場所を突いた。
 七海の迷いの根幹。
 人の死と、それを取り巻くもの  それを受けとめる自信が無い。
「お前、自分が仕事の話する時どんな顔してるか知ってんのか? 俺は、おまえのそういう泣き出しそうな顔見るの、やなんだよ。そんな顔しなきゃ出来ない仕事なんか、辞めちまえよ」
 明人が強い力で七海の両肩を掴んだ。
 その言葉の最後に被さるように、携帯から田島夏枝の声が耳を刺す。
『今すぐ来なさい、常盤木七海! ここには、あなたがやるべき仕事がある!
 あなたが来れば、後一人…いいえ、二人は受け入れる事が出来る!!』
 彼女の言葉が、七海の一番不透明な場所を暴いた。
 すとん、と、何かが身体の中で落ちた。

 やるべき事がある。
 助けられるかもしれない。
 助けられないかもしれない。
 それでも。
 あの日辿り着けなかった自分と、よく似た思いの誰かが、この向こうに何人も存在する。
 その誰かを、今の自分は少しだけ減らす事が出来る。
 どこにも辿り着かないまま、誰にも手を差し伸べられないまま失われていくよりは、
(例え、救えなくても  
 出来るだけの事をした結果である方が良い。
 そうすれば。
(せめて、行き所の無い憤りの遣り場にくらい、なれる)
 自分自身の奥の方で今もわだかまっている、誰に問えば良いのか分からない疑問。
 そして、怒り。
(救う事より先に、失う事を考えるなんて、もしかしたらとんでもないのかもしれないけど)
 救わなければならないのは、患者一人だけではない。
 家族や、関係する人々。
 その人たちに、出来る事なら納得の出来る別れをしてもらいたい  

 七海は、大きく一つ深呼吸をした。
 初めて、覚悟が、出来た。

「明人。僕は、行かなきゃいけない」
 肩を掴む手を外した。
 病院へ、戻らなければ。
「何で? ツライのに、それでも行くの? 訳わかんねぇ」
 自分にどこまでも正直な明人の声が、まっすぐ刺さった。
 確かに、もっと楽しくて、居心地の良い場所があるのかもしれない。
 けれど  
「あの時は、何もできなかった…。でも、今なら僕にも出来ることがある。
 今は辛い部分も多いけど  いや、いつまでも辛いままなのかもしれないけど、その向こうに…それを超えた何かがある気がするんだ」
 ただ無力感に押し潰されそうになったあの場所から、本当に訣別したいなら、今この場所を投げ出してはいけない。
 僅かながらその手に握った力を、腐らせてはならない。
 その向こうにあるものは、まだぼんやりしていて、見えないけれど。
「…何だよ、そりゃ」
 明人が怪訝な顔をしている。
「ごめん、まだうまく説明できない。
   後で…戻ったら、ちゃんと話すから!」
 そう言い残して、その時七海は、明人を置いてその場所を走り去った。



 それが、最後だった。
 その後、1週間以上身動きの取れない勤務状態が続き。
 その間、何度か携帯に連絡を入れたが、全く繋がらず。
 やっとどうにか確保した休日、明人のアパートを訪ねた時には、彼はもうそこにはいなかった。
 そして、唯一残された携帯電話も、いつの間にか解約され  

 以来、七海は明人と二度と会う事が出来なかった。

 やたら蒸し暑かった夏の、終わりだ。


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