epilogue.1 昨日の欠片
やたら静かな夜だ。
誰も七海を呼びに来ない。
サイレンの音すら聞こえやしない。
真夜中の喫煙室。
思わぬ再会を果たした明人は、七海の前で既に煙草を一箱空けていた。
「…まあ、最悪に中途半端な結末だったな。どっちかって言うと、僕のせいだろうけど」
七海は大きな溜息を吐いた。
今から思えば、セルフコントロールはおろか、完全に自分自身を見失っていた頃だ。
とにかく、掛けられる期待の大きさと、それに伴う責任から逃れたいばかりで、到底、相手の気持ちを考える余裕など無かった。
「まぁ、俺もあの頃は荒れてたからねぇ。今より頭ん中もお子ちゃまだったし」
明人が意地の悪い顔で笑った。
「今も…あんまり変わってない様に見えるけどね」
そう言ったのは、半分は憎まれ口。
残り半分は、意地。
「まぁまぁ、そう言うなって。これでも一応反省したのよ? 『シゴトとアタシとどっちが大事なの?』なんて、今時ドラマでも聞かないセリフだよなー」
明人はそれを、かつてと同じ、軽薄な笑顔で受け流した。
「ほんっとに! 変わらないな!」
七海は、そんな風に返しはしたが、本当は分かっていた。
彼はあの頃と同じ様にへらへら笑っているが、それでも、どこか違っている。
彼にも、彼なりの時間が流れていたのだ。
七海にも流れていた様に。
「 明人、あの後…何で急に姿を消した?」
あまりにも突然何もかもが途切れた。
だから、ずっと消化出来なかった記憶。
長く、胸につかえていた疑問。
「んー…何だろなぁ…俺にもよくわかんねぇ。何か、あの時急に怖くなった」
明人が苦笑いを浮かべ、七海から目を逸らした。
「怖い?」
明人から最も縁遠そうな単語が飛び出した。
「何て言うかな…あの頃、俺は相手の1%まで漏らさず独占していたかった訳よ。せめて、顔を合わせている間くらいは、ってことだけどさ」
「そんな無茶な」
七海は眉を顰めた。
しかし、確かに明人にはそういう部分があった。
「言ったじゃん。寂しがりだって」
明人が、居直った。
「それは、何回も聞いたけど…」
しかし、それを居直られても。
困った顔をした七海に、明人が力の無い笑顔を見せた。
過去の記憶を掘り起こしても、初めて見る表情だった。
「あん時、七海の顔見てたら…もう俺の所には戻らないんだなと思った」
「後で話すって言ったじゃないか。すぐ戻るって 」
七海の言い掛けた言葉を、明人は切った。
「自分でもわがままだなーとは思うけどさ
俺、一人でほったらかしにされんの…ダメなんだよね」
言いながら、煙草の煙を細く吐き出す。
もう、二箱めも半分無くなっていた。
そうして、初めて七海は明人の本音に気付いた。
仕事を持ち込まれるのを、酷く嫌った理由。
仕事とプライベートを切り分けないと気が済まない理由。
(ああ…そうか)
明人は何度も自分を寂しがり屋だと繰り返していた。
しかし、それを言う時の彼の態度があまりに軽薄だったので、その頃はてっきり半分洒落で言っているのだと思っていた。
(本当、だったんだ)
彼は本当に寂しがり屋で、一人にされるのを怖れていた。
だから、殊更明るく振舞い、常に自分の周囲に人を置いていたのだ。
家族と早くに離れたせいもあるのかもしれない。
帰る場所を失くしてしまった不安定さから生じたものなのかもしれない。
(どうして気付けなかったんだろう )
何もかも終わって、客観的に当時の事を捉える事が出来るようになって、初めて気付いた事実。
あの頃、それに気付いていたなら、きっと結末は変わっていた。
でも
(気付いてしまっていたら、今頃僕は医者なんて ましてや救急医なんてやってないだろうな)
二人で、例えば旅でもしているだろうか。
あてども無く、北から南、西から東 自由という名の不自由を、振り払うように彷徨っていただろうか。
無限にループし続ける、狭い宇宙を。
一瞬、通り過ぎた時間の欠片が白衣の袖を引く。
七海は小さく笑った。
いずれにせよ、『If』の未来に幾らの意味も無い。
七海は早目に話題を切り換えることにした。
「 そう言えば、あの頃言ってたコンテストだかコンクールだか、あれ、結局どうなった?」
そもそも、明人のカットモデルとやらを引き受けたのが始まりだ。
そんな事まで中途半端に終わってしまった。
「あー、アレ? 実は、書類選考通ってた」
「え、じゃあ、せっかくのチャンス 」
七海は自分のせいでフイになったのか、と一瞬焦った。
「いや、通過してたのを知ったの、あれから一年以上経ってからなんだわ」
明人が苦笑した。
「はぁ!? 何で!?」
「通知が来たの、俺がアパート引き払った後でさ。どうも大事そうな書類だってんで、大家さんが捨てずに置いといてくれたわけ」
しかし、引き払った後のものをどうやって受け取ったのだろう。
七海がそれを問うより先に、明人は続きを話し始めた。
「俺がアパート引き払った半年あとくらいかな 父親が訪ねてきたらしくて。
一応、母親にはアパートの住所だけは知らせてあったから、それ見たみたいだけど」
「へえ…」
意外な展開があったようだ。
「まあ、だからって特に仲直りした訳でもないけど、母さんがちょっと身体壊して入院したとかで、荷物まとめてる時にタンスの引き出しから俺の連絡先見つけたらしい。それで、母さんが俺に会いたがってんだと思ったみたいだな」
明人が肩を竦めて笑った。
「でも、そこからよく連絡取れたな。もうアパートを引き払った後だったんだろ?」
「都内の美容院に、片っ端から電話したって聞いた。
それでまあ、運良くか悪くか、ご対面するハメになったってこった」
「良かったじゃないか。喧嘩別れしたままよりは」
まるで他人事のように話す明人に少々呆れつつ、それでも、そう応えた言葉は七海の本音だ。
「 まあな。ちょっと複雑なところもあるけど」
明人には、そう話は単純ではないらしい。
何か、思うところがあるようだ。
「…何、もしかして、また揉めてるのか?」
思わず怪訝な顔になる。
「いや、おかげさまで今じゃ盆暮れくらいは顔見せに戻ってんよ」
七海の言葉に、明人は笑った。
「何だ。それじゃ別に問題無いじゃないか」
自然に、七海の口から溜息が洩れた。
「ごめんごめん。
そうじゃなくてさ、何つか、縁とか運とかってのは不思議なもんだなーと思ってさ」
明人の口から唐突な言葉が飛び出した。
縁。
運。
「何だ、それ?」
七海は首を傾げた。
「変な話、あのまま七海と一緒にいたら、多分、未だに父親と会ってないだろうな、と思ってさ。今頃放浪生活でもしてたかな? 俺ら、明らかに逃げてたもんな? お互い」
明人が、さっき七海が考えたのと同じことを言って、おかしそうに笑った。
「そうかもな」
あの頃、確かに二人は、お互いに何かから逃げていたから。
殊更『自由』という看板を掲げて、現実から目を逸らしていた。
自由と、逃避は、まるで双子の様に外見がよく似ている。
その性格は、まるで反対のところにあると言うのに。
会話が、途切れた。
あの日、唐突に訪れた分岐点。
そして今日、突然現れた偶然の神様とやら。
何かを確かめるように、彼は手持ちの煙草の最後の一本をもみ消した。