prologue.1 赤色灯
赤い回転灯。
サイレン。
廊下を走る複数人数の足音。
深夜の救急室は、今夜も騒がしい。
桜川病院救命救急室所属
救急専門医
チームリーダー
それが、現在の常盤木七海を表すためのカテゴライズ。
そして、その存在の意義だった。
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「常盤木先生、急患です。初療室へお願いします」
午前2時、当直の看護師が仮眠中の七海を起こした。
「…おっけ。すぐ行く」
床に着いてからまだ15分も経っていない。
(いっそ寝ない方がマシだったかな…)
心は身体と切り離した七海は、素早く簡易ベッドから起き上がる。
長椅子に脱ぎ散らかしたままの白衣を纏い、医局から退室した。
初療室に到着すると、既に看護師がバイタルサインをチェックしていた。
「どんな感じ?」
自分自身も機器類のモニタをチェックしながら、手近な助手に声を掛けた。
「大村重敏さん。35歳、男性。急性アルコール中毒です。輸液ルート取って、今はラクテック入れてます」
処置に当たっている助手は、冷静な声で答えた。
彼は昨年の秋に入局した研修医だ。
遠藤要。
彼は七海の生徒であり、同時に恋人でもある。
医師としても、個人としても、真面目で誠実な人間だ。
彼の安定した穏やかさには、随分援けてもらっている。
それを、本人に面と向かって伝えたことはないけれど。
実は、恋愛に話を絞るならば、七海は今までロクな経験がないのだ。
七海は、恋愛対象としての興味を、同性にしか持てない。
その時点で、選択肢が少なくなるのは仕方ないが、それにしても
(思い出すにつけ、ロクなことしてないな)
思わず過去のあれこれを思い出してしまい、七海は溜息を吐いた。
顔を上げ、改めて生真面目な顔で仕事している助手兼恋人の顔を見る。
遠藤は、もとから同性に興味があった訳ではなかったはずだ。
それでも彼は、七海を受け入れた。
七海は、同性で年も上の自分を正面から受け止めてくれた相手に対して、感謝に近い気持ちを抱いている。
また、柔軟に人を受け入れる事が出来る彼は、仕事の中でもとても素直に経験を吸収していく。
それは、指導医という視点から見ても確かな手応えを感じさせてくれるものであり、恋愛とはまた別の充足感を与えてくれた。
同じチームで、彼と組み始めて1年と少し。
仕事も、プライベートも、今が一番充実している。
心から、そう感じていた。
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今夜の急患は、急性アルコール中毒。
比較的多い種類の患者だ。
本来なら、研修医だけで対応出来る範囲だろう。
それでも、七海は出来るだけ自分自身の目で患者を確かめたかった。
よくある症状の中に、稀にではあるが、酷似している症状でも重症度が段違いの疾患が紛れ込んでいる。
残念ながら、こればかりは経験がモノを言う判断で、到底1年かそこらの臨床経験では身に付かない。
「……ちょっと体温低いな。血圧も下がってる。呼吸が浅く、頻拍…デキスタはチェックした?」
「はい。あと少しで結果出ると思います。血液は検査室に送りました」
デキスタチェックと言うのは、血糖値検査の事だ。
血中のエタノール濃度が急激に上昇すると、代謝機能は著しく低下する。
そこから引き起こされる症状は様々だが、代表的なものでは脱水…低血糖…低血圧…低体温などだ。
重度の中毒になると、昏睡…心室細動や心室頻拍などの心停止…植物状態…最悪は死亡…となる。
また、意識混濁の場合、原因となる疾病として糖尿病などの危険因子が潜んでいる場合もあり、そういう原因疾患、基礎疾患をに逃さない為にも、必ずデキスタチェックを行っていた。
(大体、中枢神経を麻痺させるんだから、エタノールって一種の麻酔だよな…。飲み過ぎる人ってそこんとこ理解してんのかな)
七海自身、どちらかと言うと飲酒量は少なくないが、ここまでなるほどは、さすがに怖くて飲めない。
「それで、この患者さん付き添いの家族とかいるのかな。昏倒したって話だから、状況を訊けるなら訊きたいんだけど。もし頭ぶつけてるなら、場合によってはCT撮らなきゃいけないし、一晩入院してもらうから、その辺の理由も説明しなきゃいけないし」
「同じ職場の同僚が一人、救急車に同乗して来てます」
遠藤が救急隊から引き継いだ情報を確かめた。
「じゃ、僕は付き添いの面接に行こうと思うんだけど、ここはお前に任せて大丈夫だよな?」
眼前の研修医に、確認を取る。
今のところ、患者はさほど重篤な症状ではない。
処置は遠藤に任せて、付き添いの面接に行っても大丈夫だ。
後は、本人にその自信があるか確認できればいい。
「はい、大丈夫です」
1秒後に返ってきた彼の答えは、淀み無く明瞭だった。
それは、実践的な経験を着実に積み上げ、少々の急変に対応できるという自信に変わりつつある証拠だった。
「それじゃ、よろしく」
初療室から退室した七海は、付き添い人がいるはずの待合へ向かった。