prologue.2 偶然の神様
夜間救急の待合室。
日中に勝るとも劣らない混雑具合を示しているその光景は、もはや日常的なものであった。
しかし、その賑わいに反して、ここで待つ患者の大半は、七海の預かる初療室までは来ない。
それより遥か手前、問診と一日分の投薬のみで帰される患者がほとんどだ。
七海は、手近な看護師に声を掛けた。
「今、初療室にいる大村さんの付き添いさんはどこ?」
「大村さんの付き添いの方でしたら、そこの長椅子に座っておられますよ」
彼女が指さした先に、身体に張り付くほどスリムなTシャツに、Gパン姿の細身の男が座っていた。
首や腕に細い革紐を幾重にも巻き付け、シルバーのアクセサリーを所々重ねている。
大きく脚を開き、背中を丸めてその膝に肘を載せている様は、さながら海外映画の俳優のようだ。
看護師に礼を言うと、七海は付き添いの男に近付いた。
「大村重敏さんの付き添いの方ですか?」
驚いた事に、顔を上げたその男は、七海の知っている人物だった。
「…七海? なぁんだ、まだお前ここで働いてたんだ」
とても重症患者の付き添いとは思えない暢気さで、男は笑った。
「明人…?」
男の名は、津守明人。
顔を合わせるのは何年ぶりになるだろうか。
まだ、七海が研修医だった頃、ほんの僅か 付き合っていた相手だ。
「で、ドクター、シゲさんの様子どう?」
さほど心配でもない様子で、明人が訊ねた。
「…大村さんは特に大事ありません。様子見のために一晩は入院してもらいますが。大村さんは、転倒されたり、怪我をされるような場面はありましたか?」
マニュアル的な受け答えをしながら、七海は動揺していた。
一瞬で、過去と今が交錯する。
それは、七海の頭の中にある種の混乱を招いた。
目の前に立っているのは、おそらく死ぬまで会うことは無いだろうと思っていた相手だった。
「いいや? 居酒屋のテーブルに突伏して寝ちゃってさ。最初はほっといたんだけど、さすがに帰りたくなって、起こそうとしたのね。そしたら、揺すっても叩いても起きないじゃん? こりゃおかしいな、と思って、救急車呼んでもらった」
「飲酒量は、どのくらいですか? 普段の食事は?」
「バーボンの空瓶が4本くらい転がってたかなぁ…。まあ、半分は俺だけど。あ、最初の方にビールも4杯くらい飲んでたな。メシ? どうかな。最近離婚したっつてたけど、一人になってからはまともに食ってないんじゃないかな?」
相手は、何年も前に別れたとは思えないくらい馴れ馴れしい物言いだ。
それに対して、七海の対応は反比例するかのように素っ気なくなってゆく。
「救急要請時は意識混濁、外傷の可能性は低い、栄養状態も悪い、と。 初療室にこれ持っていってくれる? 追加する薬品の指示書いてあるから」
待合室を巡回している看護師を呼び止め、指示書を手渡した。
「何だ何だ、さっきから! 随分他人行儀だなぁ。一緒に何度も朝を迎えた仲じゃないの」
大げさなジェスチャーを添えて、明人が大きく首を横に振った。
こんな動きさえも芝居がかっている彼の職業は、役者ではなく美容師のはずだ。
七海と付き合っていた頃から変わり無ければだが。
「な、 にを」
人の職場へ来て、いきなり何を言い出すんだ。
「これも偶然の神様の思し召しってヤツかもよ? 少し話さない?」
悪びれず、明人は笑った。
その言葉を、七海は即座に撥ねつける事が出来なかった。
何故なら、明人とは決着が付かず仕舞いだったからだ。
ある意味、自然消滅と言える状態のまま終わってしまっている。
そこに、僅かだけれど迷いが残っていた。
それは、今更明人に対して気持ちが残っているとか、そういうものではない。
何故、あんな終わり方になってしまったのか、それがずっと心のどこかにわだかまったままだったから。
それが、知りたい。
そんな気持ちが、今も少し残っていたのだ。
しかし、次の瞬間、今も初療室で奮闘しているであろう現在の恋人の顔が、七海の脳裏を過った。
(今更、何も拘る事なんかないじゃないか…何を考えてるんだ)
七海は大きく一度深呼吸をした。
「悪いけど、救急はそんな暇じゃないんだ」
出来得る限りの素っ気ない態度で、七海は明人の言葉を撥ねた。
そこへ、メッセンジャーの看護師が、初療室からの報告を携えて現れた。
「お話中失礼します。遠藤先生からの伝言です。大村さんの処置が終わり、病棟へ移しました。今のところ他に急患はありませんので、常盤木先生はそのまま仮眠に戻ってください、とのことです」
事務的にそう告げると、看護師は一礼してその場を去っていった。
メッセージを受け取り、暗澹たる気持ちで、再び明人に目を遣った。
彼は、七海の顔を見ると、明人は面白そうに肩を揺らせて笑っている。
「暇になったみたいだな」
皮肉か。
それとも、嫌味か。
「………………。おかげさまで」
何も、こんなタイミングで休憩を報せてくれなくても良さそうなものだ。
大体、患者やその関係者の前で休憩の話などするべきではないのだ。
(後で師長あたりにそれとなく看護師の指導、頼んどこう)
半分八つ当たりのような気持が七海の頭の中をぐるぐる回る。
それにしても、そのメッセージの出所が遠藤であるのが、また何とも皮肉な話ではないか。
明人の言葉を借りるならば、偶然の神様とやらは、よほど悪いジョークが好きなようだ。
「ところでさ、ここ、タバコ吸えるとこないの? 俺、さっきからえれぇガマンしてんだけど」
四角い小さな箱をかしゃかしゃと振りながら、不服げに明人が言った。
「……僕は煙草嫌いだって、昔もしつっこく言った気がするんだけどね」
煙草嫌いの人間を呼び止めておきながら、喫煙所を訊ねるとは、相変わらずいい根性だ。
「懐かしいねぇ、その説教くさい態度! そうそう、お前昔から何かとうるさいんだよね。で、喫煙所どこ?」
これ以上何を言っても無駄。
相手の図々しさに閉口した七海は、諦めと共に、明人を喫煙所に案内した。