prologue.3 Purple Haze
救急病棟の2F、廊下の最も奥の行き止まりに、喫煙所はある。
ERのスタッフも使っている場所だ。
やはり喫煙者の一人である、遠藤も使っている。
いつ誰が来るか分からない場所で明人と話をするのは、少々嫌な気分ではあった。
しかし、ERからそう離れる訳にもいかないし、七海自身に後ろ暗いところは無い。
そこから導き出された結論は、開き直りだった。
「すっかりお医者さんだなー、七海。そんな格好してると、良くない妄想しちゃいそう」
へらへら笑いながら、明人が言った。
初療室からそのまま出てきた七海は、薄いグリーンの手術衣姿だった。
首に聴診器を引っ掛けたその格好は、まるでドラマの中から切り取った様なスタイルだ。
「人の制服をイメクラの衣装扱いするな」
どうしてこの男は昔も今もこうフザケているのだろう。
苛立たしげに七海は目の前の元恋人を睨み付けた。
「そうやってすぐムキになる。もっと気楽にしたら?」
ムキになればなるほど、明人は面白そうな顔をする。
そこがまた、癇に障って仕方が無い。
「明人がフザケ過ぎなんだよ」
「まぁ、俺は気楽に生きるのが信条だからね」
「僕とは気が合わないね」
「そうかなー。足して2で割ったら、ちょうどイイんじゃない?」
フザケ過ぎ、という自覚は、彼にもあるようだ。
「割るのはともかく、まず足さないから」
僅かでも隙を見せたら、相手の調子良さに飲み込まれる。
この時七海は、ここ数年でちょっと例が無いほど気構えていた。
その様子を見た彼は、苦笑して、一つ息を洩らした。
「…ま、ね。足したところで、俺らは混ざらないかもね」
急に声のトーンが下がった。
そして、明人は七海から目を逸らした。
ずっと手で玩んでいた小さなの箱から、煙草を一本取り出し、火を点ける。
喋る時のテンポに反して、彼は非常にゆったり煙草を吸う。
深い呼吸の中に、淡い紫色の煙が溶けている。
昔、付き合っていた頃も、彼はまるで自分の身体の一部のように、この紫の煙を吐き出していた。
何か、言いそびれた言葉を吐き出すように。
「七海と付き合ってたのって、何年くらい前だっけ?」
煙の隙間から、ぽつんと明人が洩らした。
「さあ…。何にしても、大昔の話だよね。…それにしても、こんなこと言うのも妙な話だけど、付き合ってるって認識くらいはあったんだな」
正直なところ、七海自身はそう思っていたが、明人が同じ様に思っていたかは、今の今まで謎だった。
当時は、どちらかというと七海ばかりが追っていた様な気がするのだ。
「あったさー。あの後一年くらい立ち直らない程度にはね」
苦笑いして、彼は一本目の煙草を揉み消した。
その手で、既に二本目の煙草に火を点ける。
相変わらず、チェーンスモーカーの様だ。
「意外だな。てっきり、気にも留めてないと思ってたよ」
本気で、そう思っていた。
「気楽に生きるのが、俺の信条だからね。重苦しくなるのは趣味じゃないの」
やはりへらへら笑って明人が答える。
「死ぬまで言ってろ」
呆れ気味に、七海は溜息を吐いた。
「あっはっはー。相変わらず香ばしいなぁ、その減らず口! いっつも手酷く叩っ切られてたっけ、俺」
「人聞きの悪い…」
「だってさ、初対面から怒鳴りつけられたんだぜ? ちょっと無い経験だよね」
「う…。ヤな事憶えてるな…」
明人と出会ったのは、七海がまだ研修医の頃だ。
七海が外来当番をしている時に、明人が診察を受けに来た。
当時、未熟者だった七海は、診察に来た彼を思いっきり怒鳴りつけてしまったのだ。
「ホント、懐かしいなぁ。蒸し風呂みたいなアパートとか、七海が階段上ってくる足音とか、こうやって思い出してみると…意外と憶えてるもんだ」
彼は懐かしそうに、そして寂しそうに、目を細めて呟いた。
二本目の煙草も、じきに火が根元に届くだろう。
妙に静かな夜だ。
誰も七海を呼びに来ない。
何者かが図った様に、サイレンの音すら聞こえない。
咽喉の奥に引っ掛かった魚の小骨のような、些細な記憶を吐き出してしまえと、誰かが囁いている様だった。
(全く。
憶えていなくても良いのに
そんな事ほど、憶えてるんだよな…)
七海は溜息を吐いた。
緩やかに蘇るのは、古い記憶。
灼熱の夏。
狭苦しいアパートの一室。
そして…銀色のハサミ。