epilogue.2 代償
煙草を切らせて手持ち無沙汰になった明人の手が、しきりに手首に巻いた革紐を弄っている。
七海が明人と出会った日から、今日初めて、彼がまともにその仮面の下の素顔を見せた。
かつて、それを垣間見る瞬間が無かった訳ではない。
しかし、それはいずれも不用意に零れ落ちたものであって、彼が自ら意図して見せたものではない。
それが、再会から僅か数十分 明人は、どれほど近くに居た過去よりも遥かに素の顔を、この時七海に見せていた。
本当の明人は、
一人にされるのが怖くて、怖くて、怖くて仕方ない
怖くて仕方ないから、それを嘘の笑顔の下に隠している。
そんな、嘘吐きの大人だった。
そういう自分をよく理解していた彼は、反対に相手から傷付けられてもそれを責めようとしなかった。
あの頃の明人は、それで自分が殺される日が来ても、笑顔でそれを受け止めたかもしれない。
彼が怒ったのはたった一度 七海が彼との間に仕事を挟んだあの時だけ。
一緒に居られる時間は少なくてもいいから、その時間だけは独占したしたい 明人はそう言った。
七海は、例え仕事をしながらでもいいから少しでも長い時間、明人と一緒に居たかった。
形が違うだけで、それは同じものだった。
七海もまた、別の形で彼を独占していたかったのだ。
しかし、お互いの表現方法が違う事に、二人ともまるで気づくことが出来なかっただけ。
夜明け前の静寂の隙間から、既に固形化した記憶がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
とうに結晶化してしまったそれは、今更どんな変化も起こらない。
そんな事は、お互いにもう分かっている。
「…あの時、
俺を振り切ってったお前が、
シゲさんを助けてくれたんだよな」
少し長い沈黙を経て、明人が不意に呟いた。
そして、背中を丸めて大きく息を吐いた。
よく見ると、膝の上で組んだ彼の手は、力が入って白くなり、小刻みに震えている。
自分が死にかけた時すらへらへら笑っていた男が、本気で恐怖を感じているらしい。
それほど彼にとって、今初療室にいる大村重敏は大切な人物なのか。
「………。
そう…なのかな」
少し意外な思いで七海は、中途半端な相槌を打った。
彼の執着の仕方は瞬発力はあっても持久力が無いと言うか、もっと刹那的な衝動で行動する人物と言う印象が強かったからだ。
数度深呼吸を繰り返して顔を上げた彼は、七海の意外そうな顔を払うように、いつもの調子で軽口を叩き始めた。
「誤解されないように言っとくけど、色気のある関係じゃないからな」
ニヒルに笑って、七海が勘操るより先に最も疑われそうな内容を、彼は打ち消した。
今現在、例え色気が在ったところで、七海には何の関係も無いのだが。
そんな事は明人が一番知っているはずだ。
だから、もちろんこれは冗句なのだ。
「あ、そう」
素っ気無く相槌を打つくらいしか突っ込みようの無い冗句なのが残念だ。
しかし、そんな事と係り無く明人は、更に話し続けた。
(時々、患者や患者家族ってヤマを越えた途端堰が切れたみたいに話し始めたりするけど、その口かな)
彼なりの緊張が途切れたのかもしれない。
そうなると、このパターンの話は長い。
七海は改めて話を聞く態勢を作り直した。
「同じ店の先輩なんだけど、『せっかく連絡くれたんだから親と会ってこい』って俺の背中蹴飛ばしたの、シゲさんなんだ」
へえ。
「…それは、恩人だね」
聞かされたのは、またも意外な事実だ。
あの頃のままの明人だったら、きっと死ぬまで両親と再会する事は無かっただろう。
(でも、確かに明人は、自分の父親のことは、どこか尊敬してる感じではあったよな)
大喧嘩して家を飛び出した 或いは放り出された明人は、それでも言葉の端々に父親に対する尊敬の気持ちを覗かせていた。
本当は、ずっと会いたかったのかもしれない。
(そう言えば、一度だけ、実家のすぐ近くだと言う海岸まで、真夜中に走った事もあったっけ )
黒々とした海を、あの時明人はどんな気分で見ていたのだろうか。
「恩人、だな」
改めて、七海が口にしたものと同じ単語を明人が呟いた。
「うん」
もう一度、相槌を打った。
「…あの時さ」
明人が顔を上げ、七海の顔を真っ直ぐ見上げる。
「うん?」
「お前に置いてかれてさ その後ずっと、『何でだろう』って、考えた。
くっついたり別れたりなんてさ、はっきり言ってあの頃は日常茶飯事で珍しくも無かったのに、何でかあの後は、自分でも意外なくらい落ち込んだし、なかなか立ち直れなかった。
でも…あの時、俺を顧みなかったお前だから、今日、シゲさんを救けられたんだよな」
複雑な顔で、明人が笑った。
「……。
それは…どうか分からないけど」
今夜七海が当直勤務だったのは偶然だし、他の医師、他の病院でも、救命出来ただろう。
「ここに運ばれてくる途中、救急隊のヒトがさぁ、一生懸命励ましてくれる訳よ」
「 ? うん」
何故、突然救急隊の話が。
「桜川のERには、天使サマの顔面を蹴飛ばしてでも天国の門から患者を奪い返してくるすごい医者がいる。だから大丈夫だ、って、何回も言う訳。いざ着いてみりゃ、七海がいるじゃん? 救急隊の女の子が言ってた医者って、お前のことかって思って あの頃と大違いだよな」
明人が苦笑した。
初対面、彼が救急外来に現れた時、七海はまだ研修医で、看護師がいなければ処置は出来ないし、診療記録は取り忘れるし、挙句に患者を罵倒すると言う、言い訳の余地のない未熟者だった。
「あんまり、昔の話を振らないでくれる?」
穴があったら当時の自分を埋めてしまいたいところである。
「まあまあ。 それが今じゃ、すっかり頼もしくなっちゃってな」
そう言って小さく笑った明人の顔が、少し寂しげだったのは、気のせいだろうか。
もしかしたら彼は、自分が無駄な寄り道をさせたのだと思っていやしないだろうか。
そうだとしたら そうでなかったとしても、一つだけ、明人に伝えておかなければならない事がある。
「今でもまだ頼もしいとは言い難いけど でも、今こうしてそれなりにこの仕事を続けられてるのは、明人と出会ったからだよ」
自分でも今まで考えた事も無かった言葉が、ぽろっと転がり落ちた。
今だからこそ、言える事だった。
当時は、気付きもしなかった事だ。
「昔にも言ったけど、僕はもともと自分からこの世界に入ったんじゃなかったから 」
「…ああ、親戚に勧められたとか何とか言ってたっけ?」
「だから、なかなか実感持てなかったんだ。人の命を預かるとか、それがどういう事なのかとか。ただ、勧められたから大学に入って、免許取れたから働いて、って感じでね 長い事、そんな感じだった。
明人も言ってたろ? 『そんなだったら辞めちまえ』って」
「まぁ…言ったっけな?」
「正直、確かに嫌々やってる部分もあったんだ。ずっと世話になってる親戚だったし、期待もかけられてたし、そういうの、何もかも鬱陶しくて
でも、あの時…選択を迫られて、僕は、医師である自分を選んだ。あそこで病院に戻ったら、きっと、明人の事は失うんだろうって事は心のどこかで分かってたのに。それでも、僕は明人を振り切った。そこまで選択を迫られて、初めて、自覚が持てた。 ハタから見たら馬鹿みたいだろうけどね。
明人と出会ってなきゃ、あのまま漫然とマニュアル通りのもっとヤな医者になってたんじゃないかな」
そう、それは、かつて七海の父親を見捨てたのと同じような。
型通りの診療。
型通りの処置。
枠組みから外れたものを排除して、誂えられた椅子の上に鎮座する。
「そっか」
「だから、あの日明人を振り切った僕だから大村さんを救えたんだとしたら、それは、明人が僕に選択を迫ったからだ。あの瞬間が無きゃ、今の僕はいないんだから」
それが、この夜を手に入れた代償。
二人は、お互いを失って、別のものを手に入れた。
「…そうか」
明人の口から、心なしか満足げな声が洩れた。
そして、見慣れた『軽薄な』笑顔を見せた。
その顔に、七海は少し安心した。
(こいつのこの顔見て安心する日が来るとはね)
昔はあれほど神経を逆撫でされたと言うのに。
時間の流れと言うのは、本当に不思議なものだ。
思わず苦笑いしてしまった。
喫煙室の窓から見える空が、僅かに明るくなり始めている。
もうすぐ、夜が明ける。