epilogue.3 Quality of Life
窓の外が白む。
二人を包む空気は、穏やかに凪いでいた。
それは、もう全ての熱を過去に置いてきたから。
このまま、明人は患者の付き添いとして去り、七海は医師としてそれを見送るだろう。
それで、エンドロールだ。
そう、思っていた。
しかし
「まあ、シゲさんとしてはさ、あのまま目ぇ覚め無かった方がシアワセだったかも だけどな」
和やかなエンディングを迎えつつあったその時、明人が突然爆弾を投げた。
は?
何だと?
何を言った?
一瞬、何を言い出したのか分からなかった。
ついさっき恩人だと言った、その口で。
仮眠している人間を叩き起こして、治療をさせて。
もっともらしい殊勝な言葉を吐き。
その明人が
「今、お前、人の仕事を根底から否定したな?」
全く、過去も今もこの男の口だけはどうにかならないものだろうか。
七海は、明人の言葉を反射的に彼一流の度を越えた冗句だと思った。
冗句にしては、あまりにもタチが悪いが。
「いや、そんなんじゃないけどさ。シゲさんは 」
しかし、それに反して明人は至極真面目な顔をしていて、更に何か言葉を付け足そうと口を開いた。
その瞬間
「あの……」
七海の背後から遠慮がちな声が会話に割り込んできた。
「常盤木先生、面接中申し訳無いんですが 報告です」
振り返ると、さっきまで大村重敏の処置に当たっていた看護師がそこに立っていた。
「報告 大村さんの?」
まさか、急変か。
それとも、別の急患か。
「所持品の中にウチの診察券が入ってたんで診療記録を調べてもらったんですが…大村さんは3日前まで消化器外科に入院していたようです」
「うちの? 『していた』って事は、エント済み?」
エントというのは、退院を表す独語 『エントラッセン』の略語だ。
退院直後に急性アルコール中毒と言うのは 七海は眉を顰めた。
「エントと言うか、3日前に都立病院へ転院してます。最後の記録では、EC エンドステージ…です」
(EC EsophagealCancer 食道癌…末期)
それを告げる看護師の声は、暗かった。
都立病院へ転院したのは、おそらく桜川病院にホスピスがないからだ。
最新医療の研究機関である大学病院には、通常あまりホスピスは無い。
だから、余命3ヶ月を切ってしまった患者に対して、十分なターミナルケアを行う事は難しいのだ。
「それじゃ、私は初療室に戻ります」
明人に続き、非常に気難しい爆弾を投下した看護師は、そのまま初療室へ引き返していった。
その背中を見送りつつ、七海はこれを明人に伝えるべきか否かの判断に思案を巡らせた。
『あのまま目ぇ覚め無かった方がシアワセだったかも 』
ふと、先刻零れ落ちた明人の言葉が脳裏に浮かんだ。
七海は、明人を振り返る。
(まさか、 )
「末期ガンなんだろ? もう手術のしようも無いって言われたっつってたよ」
明人は、笑っていた。
(知って ?)
「若い分、進むのも早かったんだろううなぁ。仕事も忙しかったし、離婚のこともあったしで、なかなか病院もいかなかったしさ。
今週のアタマくらいだったかな? イチかバチかで…治験つの? 新薬に賭けるか、転院してホスピスで死ぬのを待つか決めてくれって言われてさ。
そんで、まぁ…今日は、新しい方の病院抜け出して、二人で飲んでたんだ」
いつもの芝居がかった仕草で、明人が肩を竦めた。
(つまり…ヤケ酒、か)
それで、さっきの暴言か。
おそらく、吐き気や痛みで飲んだり食べたり出来る状態ではなかったはずだ。
それを、急性アルコール中毒を引き起こすまで酒を飲み続けたとなると、ほとんど自殺に近い行為である。
いや、そう言い切っても良いのかも知れない。
これはさすがに、いい加減愁嘆場には馴れていた七海でも、咄嗟には掛ける言葉が出てこなかった。
「七海がそんな顔しなくていい。今日は今日で、助かって良かったんだから。 つか、俺が助かって良かった日にするからさ」
明人は、笑っていた。
「助かって…良かった日に、する?」
明人は、笑っていた。
「重苦しいのは嫌いだって言ったろ?」
明人は、笑っていた。
「それは、何回も、聞いたけど…」
明人は、笑っていた。
「なあ、癌ってさ、末期のことをエンドステージって言うんだよな」
それは、唐突な言葉だった。
「え? …ああ」
さっきの言葉を聞かれたのだろうか。
それとも、何かの弾みで知ったのだろうか。
「人生のエンドステージこそ、笑って終わりたくねぇ?」
「そりゃあ…」
でも、現実はなかなかそうもいかない。
この何年かの間に、嫌と言うほど突きつけられた現実だ。
「笑って、終わって欲しいんだよな。俺としては」
七海の前に積み上げられたリアルを知らない男が、夢見心地に呟いた。
「笑って、終わる?」
「さっきも言ったとおり、シゲさん、ちょっと前に離婚したんだけど 元奥さんとの間に一人、女の子がいるんだよね。あれで結構親ばかでさ、すげぇ会いたがってんの。
でも、借金やら浮気やらで奥さんとはこじれにこじれて別れてっからさ、そこれがなかなか難しくてさぁ。 なぁ、ここは恩返しのしどころだと思わない?」
明人が不適に笑った。
「恩返し…か?」
徐々に、明人の言わんとしている内容が見えてきた。
「俺に、親に会って来いって言ったシゲさんだからさ、子供に看取られて逝って欲しいだよね。 そりゃ、奥さんにしてみりゃ、いいメーワクだろうけどもさ。
でも、俺はシゲさんの味方だからしょうがないね」
「………」
どうやら彼は、大村氏と彼の娘を再会させたいようだ。
しかし、今聞いた限りでは相当困難であることが容易に想像できる。
どういう風に明人がそれを実現するのかは、七海には分からない。
けれど
「最後の最後に、重苦しいのは嫌だよな。最後だから笑って終わるんだ」
明人は、真っ直ぐ前を見て、そう笑った。
繰り返し
繰り返し
重苦しいのは嫌いだと言い続けた明人。
したい事しかしたくないと言い切った明人。
頑なに彼は自分の『本能』を貫いてきたのだ。
(筋金入り、だな)
七海は、相手に気付かれないよう、小さく笑った。
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最近、QOL Quality of Life 生命の質と言う言葉を、耳にする機会が増えてきた。
身体機能を機械的に維持するのではなく、各個人の生活の質をも維持すること。
言い換えれば、その人がその人らしく在ると言うこと。
最後まで、自分らしく生きると言うこと。
そんな言葉を、明人は別に知っていた訳ではないだろう。
しかし、その彼が辿り着いた答えは、まさに生命の本質だった。