epilogue.4 φの距離感
とうとう夜が明けた。
いつの間にか語る言葉も無くなり、二人は黙したまま、ただ座っていた。
(朝、か )
遠い過去、よく二人でこんな空の色を見た。
青いような、
紫のような、
それでいて、白金を帯びた白い空。
一日が始まる前の静寂を、
涼しい寂しさが満たしていた。
「今なら、もう少し上手くお前との距離を測れたのかもな」
突然、明人が呟いた。
「距離…?」
「あの頃は、自分の腕の中に欲しい相手が居てくれればそれで良かった。
でも、今はそうもいかなくなった。大事なものが増えたからだ。
仕事とか、友達とか、家族とか 同じ強さで、違うベクトルに伸びるキモチがさ。ま、年食って、ある意味欲張りになったんかもな」
苦笑混じりに、明人は肩を竦めた。
「…………」
「今くらいの距離感をあの頃の俺が持ててたら、お前をあんな風に追い込むようなマネ、しなかっただろうな なんて事を、今更に考えちまったわけだ」
彼は、過去の問題点について自分なりの解決点を見出したようだ。
「…………そう」
しかし、七海の方はむしろその言葉にこそ、根本的な問題点を見つけてしまった気がした。
(そうか 明人と考え方がズレてしまったのは、こういうとこなんだな)
七海は、誰をどの様にどのくらい好きだとか、あるいは嫌いだとか、そんな風に距離感を計ったことは無い。
測ろうとも、思わない。
在るべきものが、在る。
ただ、それだけなのだ。
「…ま、いいや」
七海の気持ちが透けて見えたか見えないかは分からないが、明人が溜息混じりに笑った。
「さて、七海センセイ? ウチのセンパイはこれからどうなるんでしょうかね?」
そして、話を一番最初まで引き戻した。
未明、担ぎ込まれた大村重敏氏の今後についてである。
「まあ…ホスピス的なターミナルケアはうちの病院じゃできないから、転院先の都立病院へ戻ってもらう事になる訳だけど 」
(無断外泊の末、急性アルコール中毒で担ぎ込まれた、って言うのは、受け入れ拒否されかねない事由なんだよな…)
七海は、その言葉の後半部分を声には出さなかった。
起こってしまった事は、今更ああだこうだと言ってみても始まらない。
全く頭の痛いことである。
「とりあえず、僕の方から都立病院へは連絡を入れておくけど、くれぐれもこんな無茶はしないようにって、明人からも重々伝えてくれよな。
言っとくけど、こんな自棄的な暴挙に出る事は間違ってもQOLとは言わないんだからな」
「へいへい。以後、気をつけマス」
大仰なパフォーマンスを添えて、明人が彼らしい答えを返してきた。
「今のところ容態も安定してるから、急変は無いと思う。とりあえず、目を覚まして貰わないと搬送も出来ないし、こっちの手続きも、9時にならないと医事課が開かないから出来ないし、明人も一旦帰んな。また、昼前くらいにでも来てくれればいいんじゃないかな。僕も日直の医師にはちゃんと申し送りしとくから」
「あれ? じゃあもう七海、帰っちゃうわけ?」
「 ったりまえだろ。僕は当直だったんだから。もうすぐ勤務も明けるし、帰るよ」
「つめてぇ…。居てくれてもいいじゃん」
「患者全部にそんな真似してたら、この商売体が持たないの」
言葉の外に、『特別じゃないんだ』と言う意味を持たせながら、七海はそう言った。
「あーあ。最初に戻っちまったわけだ」
了解したのか、明人がつまらなそうに溜息を吐いた。
「最初?」
「救急患者と、医者のカンケイ。ま、今日の俺は付き添いだけどな」
「………。
わざわざ、敢えて、言葉に表すならそういうことだな」
「んじゃ、マジで一旦帰るわ。…サンキュな」
そう言って、明人は椅子から立ち上がった。
出会った時と同じように、軽い仕草で片手を挙げると、そのまま廊下を真っ直ぐエレベーターへ向かって去っていった。
かつては、七海が彼に背を向けて走った。
今日は、明人が七海に背を向けて歩いてゆく。
長い間、クローズ出来なかった一場面が、やっと閉じた。
今度こそ、本当にエンドロールだ。