Recollection.30 夏の終わり
翌朝の当直明けは、間悪く、症例検討会が予定されており、やっと病院を出れたのは午前11時頃だった。
病院を出た後、その足で七海は明人のアパートに向かった。
あまり電車で訪れたことの無い町に、七海が辿り着いたのは1時間後。
俄かに空が暗くなり、雨が降り出していた。
(何も、天気まで不景気にならなくてもいいのに)
ビニール傘を置いてそうなコンビニを探してみたが、見つからない。
(仕方ない。ダッシュで行くか)
七海は、小雨のぱらつく中を駆け出した。
空を覆う雨雲が、町の風景を灰色にくすませている。
雨に濡れる夏草は、やたら青い匂いを放っていた。
そして、徐々に雨脚は強まってゆく。
皮膚を叩く雨の粒がやたら大きく、痛い。
それは、何者かの悪意のようだ。
明人のアパートに着く頃、七海は、全身濡れ鼠になっていた。
「……これだから夏は」
一度天候が崩れると、夏は早い。
大きく一つ深呼吸をして、アパート玄関をくぐり、階段を上る。
古い木製の階段は、ひどく軋んだ音をさせていた。
明人が、壁が薄いから音がよく響くと言っていたが、確かにそうらしい。
階段を上っている最中にも、住人の掛けているテレビの音やラジオの音、客人のいる部屋などからは、笑い声が洩れ聞こえていた。
(そう言えば、足音で誰か分かるんだよな……)
階段を上り切ると廊下があり、左右に3室ずつ、合計6室の貸し部屋。
正面には、このアパートの共同風呂が見える。
明人の部屋は廊下の右側、一番奥だった。
明人は、
いるだろうか。
いないだろうか。
ドアの前に立つ七海の心臓が、大きく跳ねている。
ノックしようと、右手で拳を作り構えた時、薄いベニヤを隔てた室内から声が洩れ聴こえてきた。
「 で、……から、 だよ」
明人の声だ。
(誰か、来てる…?)
独り言の雰囲気ではない。
「だーから、言っただろ? あんま真面目すぎっとダメだって!」
やはり来客のようだ。
明人より大きな声で話すその人物の台詞は、ドアの外にもやたらはっきり聴こえた。
「…て、 っても、…で」
「そんなこと言って、相性ってもんがあるだろーよ?」
二人は何かを討論している様子だ。
(客が来てるんじゃ、出直した方がいいか…)
ドアを叩くために作った拳を解いた瞬間、
「 つか、もっかい風呂借りっからな。その間によっく考えろよ…ってアレ? 誰?」
勢いよくドアが開き、中から見たことの無い人物が顔を出した。
明人と雰囲気のよく似た、派手目の青年だった。
「え……」
予想外のタイミングでいきなり開いたドアの前で、七海は固まってしまった。
固まったのは、ドアが突然開いたからではない。
中から出てきた客人の格好に驚いたからだ。
「あ、もしかして明人の かな」
そう呟いた人物は、一言で言うなら、下着一枚 だったのだ。
「…………」
どうも、良くない現場に出くわしてしまった気がする。
早々に退散すべき、と思いながら、七海が動けないでいると、
「何だ、集金か? 今、服着るからちょっと待ってもらって!」
部屋の中から、今度は明人の声が聞こえた。
「ごめんねー。聞いての通り、今すんげぇ情けないカッコになってるから、ちょっと待ってやってくれる? 」
明人の客人は、室内を親指で指し示し、苦笑いした。
「いや…。いいです。…帰ります」
身体が自然に後ろへ下がった。
「まあまあ、いいじゃん、遠慮しなくても。混ざっちゃえば。…つか、あんたも風呂借りたら? すごい格好になってるけど」
明人に負けず劣らずの軽薄さで、その客人が笑った。
「何だよ、集金じゃないのか?」
ようやく玄関先に顔を覗かせた明人もまた、辛うじてGパンを穿いていたが、上半身には何も着けていなかった。
(混ざるって、何が?)
何となく、何が行われていたか、想像出来るような気がした。
「なな み ?」
明人が、七海を見て、とても驚いた顔をしている。
「ごめん、お客さんみたいだから 帰る」
その顔に背を向け、七海はたった今上ってきた階段を駆け降りた。
「っ、て、ちょっと待てって! おい!」
階段の上から、呼びとめる声がする。
夢中で、その声から逃げた。
階段を降り切ったところで、鞄が肩から落ちた。
急いで拾って、後ろは振り返らずに、とにかく、逃げた。
確か、七海はここへ謝りに来たはずだった。
しかし、もうそんな事は頭から消し飛んでしまった。
アパートを出ると、来る時より雨脚は強まっていて、駅に着いた時には、川にでも飛び込んだような有様だ。
午後の電車は混んでいなかったが、座席に座る訳にもいかず、最後部の車両の端に立っていた。
冷房が効いた真夏の車内は、濡れた身体には少し冷たい。
乗務員室の向こうに、灰色の町が遠くなるのが見えた。
頭を過ったのは、いつか聞いた明人の言葉。
『気持ちなんか…外から縛っておかなきゃ、あっと言う間に離れる』
彼の気持ちを外から縛るものは、一体何だったと言うのだろう。
(…それこそ、カラダ?)
どう考えても、そこまで自分に引力があると思えないが。
馬鹿馬鹿しい。
七海は溜息を吐いた。
(結局、いろいろ落ち込んだり悩んだりしてたのは僕だけか)
最早、落ち込みを通り越して、情けない気持ちになっていた。
(そうだよ。最初っからあんな調子だったじゃないか。それを、何一人で盛り上がってたんだか )
情けない気持ちが、更に奥の方へ沈み込んで、その先はもう分からない。
悔しいんだか。
悲しいんだか。
怒ってるのか。
呆れてるのか。
七海は、目を閉じてもう一度大きく息を吐いた。
各駅停車の緩やかな揺れに身を任せながら、窓の外をぼんやり眺めていた。
閑散とした車内は静まり返っている。
雨を避ける傘が無い。
そんな自分が妙に惨めだ。
「お兄さん、お兄さん、風邪引くよ」
近くの席に座っていた老婦人が、見るに見かねたらしく、タオルを貸してくれた。
灰色の町は、雨に霞んでもう見えない。