Recollection.26 藍色の海
結局、ただ何となく高速を走って真夜中の山中湖、富士スピードウェイの傍を一周。
その後静岡の焼津港まで出て、しばらく海を眺めて帰った。
観光地ではない真夜中の海は、ただ黒々としていた。
本当にこのまま、どこか遠くへ行けたら。
病院も論文も全部捨てて
( なんて、ね)
そんな声にならない呟きが、藍色の波の隙間に吸い込まれて消えた。
その夜は曇っていて、空には月も星も無かった。
ただ黒々と、虚空に波のさざめきが漂うだけ。
(明日は…資料整理、終わらせなきゃな)
七海は溜息を吐いた。
『何か他にしたいことがあったんじゃないの?』
ふと、大叔母の言葉が頭を過った。
(明人も、言ったっけ。お仕着せられてやってるくらいなら、辞めちゃえって)
お仕着せられているから、息苦しいのか。
それでは、明人といる時に感じる後ろめたさは?
このところ、ずっと空転し続けている思考。
くるくる回って始めに戻る。
出口は、見えない。
小さな波が一所に集まって、波打ち際で大きく跳ねた。
ふと、隣の明人の様子が気になって、彼の顔に視線を向ける。
藍色の波を見つめながら、隣の明人はいつになく無口だった。
(どうしたのかな。いつも放っといても勝手にべらべら喋ってるのに)
今は、複雑そうな顔で藍色の海を睨んでいる。
「あ、ごめんね。ちょっとぼんやりしてた」
七海の視線に気付いて、明人が手を合わせた。
「いや、いいけど。僕もぼけっとしてたし。 明人こそ疲れてるんじゃないの? そろそろ帰るか? 何だったら帰りは運転するけど」
よく考えたら、明人も働いているのだ。
あまりにも頻繁に現れるので、すっかりプー扱いしていたが。
(そう言えば、そもそもの目的の方はどうしたんだろ。あれ以来、何も言わないけど)
最初に一回、少し切って、一枚写真を撮って、それきりになっているカットモデルの話。
(もしかして、早々に落選したのかな…)
「別に疲れてないんだけどさ、ちょっといろいろ考えちゃって。この辺、俺の地元なのよ」
七海がぐるぐる思考を巡らせていると、明人が苦笑いしてそう言った。
「えっ? あ、そうなんだ」
驚いた。
「あそこ、灯台があるっしょ。あの辺に水産高校があってさ、俺の父親の職場。実家は、もうちょっと内地なんだけど」
左前方に薄ら見える小さな灯台を、明人が指さした。
「へえ…」
「16ん時に飛び出して、それっきりだから…もう8年くらい帰ってないなぁ」
複雑な表情で、明人は目を細めた。
家を出た事情が事情だけに、帰り辛いのだろうことは、想像に難くなかった。
「僕も同じくらい帰ってないな」
渡辺家に住まう前の、本当の実家。
母親だけが住んでいる。
明人と違って、事情があった訳ではない。
ただ単純に、時間が無かっただけだ。
「七海の出身って、どこ?」
「長野」
「ありゃりゃ、山梨はさんで南と北だな」
「あ、そうだね」
「地図で見たらそんな距離無く見えるんだけど、高速が繋がってないよな。長野と静岡」
「そうそう。甲府から下道通った方が、下手に高速走るより早いよね」
その時の明人は、一たび口を開くと、後は殊更どうでもいい話ばかりしていた。
思えば彼は、本当は、実家の事が気がかりだったのではないだろうか。
少し、足を延ばしてみたら。 そんな言葉を掛ければ良かったのかもしれない。
しかし、結局そんな言葉は掛ける事も無く、ただ黙って二人で藍色の海を眺めていた。
青い車が巣に戻ったのは、空がすっかり明るくなった後だった。
大きな欠伸をしながら、明人は車をガレージに入れた。
「寄ってくだろ?」
当然のような顔で、明人が七海を振り返った。
「えっ」
資料整理が。
「ホラ、早く来いよ」
七海の返事を聞かないまま、明人はその腕を引いた。
(ま、いっか。どうせ明人も寝るんだろうし、その間に資料整理、させて貰おう)
何となく、その流れのまま、七海は明人の部屋に立ち寄った。
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後から思えば、本当はこの時点で帰るべきだった。
帰っていれば、良かった。
素直に帰っていれば、あんな擦れ違いも生まれなかったのかもしれない。