Recollection.2 お調子もの
これまで、それなりに模範的な研修医を演じ続けてきた七海が、怒鳴りつけてしまった患者は津守明人が初めてだった。
しかも、患者側には全く非が無い、謂れの無い罵倒。
自己嫌悪に陥らざるを得ない。
医大時代は、周囲から冷めているといわれた七海だが、実は意外と直情型なのだ。
(でも、ばかっ…はマズかったよな)
七海は医学書てんこもりの鞄を肩に下げ、本の束よりも重い自分の足をずるずると引きずりながら歩く。
過酷な研修生活に、心身とも限界を超えて疲れ切っていた。
周囲の研修医たちも皆疲れていたが、それでも仲間内で集まっては上級医への不満をもらしたり、合コン的なイベントを催したりしている。
七海はと言えば、そういう集まりには全く興味が持てなかった。
酒を飲むのは好きだが、どちらかと言うと一人でのんびり飲みたい方だ。
馬鹿騒ぎするのも、あまり好きではない。
その中で、最も興味を持てないのが合コン。
同期の連中にしつこく誘われるのだが、どうしても行く気になれない。
異性としての女性に興味が湧かない。
もしかしたら、自分の中には、そういう恋愛感情や性衝動が最初から存在しないのではないかと疑うほどだ。
「あ、そうだ。本屋に寄ってかなきゃ」
定期購読している雑誌の発売日だ。
七海は慌てて腕時計を確認した。
午後9時。
今日は幸い日直で終わったが、論文の下準備など、臨床を離れてもやることは山積している。
あまりのんびりしている時間は無いのだ。
「あれ、さっきのセンセイじゃん。何してんの?」
少し早足で駅へ向かう道程、背後からエンジン音と共に現れたのは件の患者、津守明人だった。
呆れた事に、彼は左腕を三角巾で吊ったまま、片手で運転している。
「津守さん!? 片手しか使えないのに、痛み止め打ってるのに、運転なんかしたらダメでしょう!」
しまった。
慌てて七海は口を押さえた。
(また怒鳴っちゃったよ…)
今度はそれなりに理に適った理由があるとは言え、やはり怒鳴るのはマズイ。
どうも調子の狂う相手だ。
このへらへらと軽薄な態度に神経を逆撫でされるのだろうか。
「あっはっは! また怒鳴られちゃった。お医者さんに怒鳴られるなんて、何年ぶりだろ」
しかし、当の本人はまるで意に介していない様子で、やはりへらへら笑っている。
「すみません」
何となく、謝るのも馬鹿馬鹿しい雰囲気なのだが、それでも一応頭を下げておいた。
後から訴えられたら敵わない。
「センセイ、いまアガリ?」
「まあ……」
「うへぇ、朝から働いてこんな時間? お医者さんって大変だなー」
彼の言い草はちっとも大変そうに聞こえない。
(つか、今日は13時間で済んでラッキーな方なんだよ…)
彼の態度は、どう見ても七海を揶揄ってるとしか思えない。
「そうなんです。大変なんです。それじゃあお大事に」
相手にしないことに決めた。
すたすたと歩き出した七海の後ろを、津守明人の車が速度を合わせて追いかけてきた。
「待って待って待って! 送ってく! 今日、時間外に診てもらったお礼に!」
とんでもない台詞に、七海は呆れてモノが言えなくなった。
「今、僕は運転するな、って言ったんだ! 聞いてなかったのか!?」
もういい。
個人的にムカついてきた。
訴えるなら訴えろ。
ヤケクソ気味に七海は、片手運転麻酔入りの患者を怒鳴りつけた。
「…ごめん」
意外と素直に彼は凹んだ。
こうもあっさり萎まれると、途端に罪悪感が湧く。
(ちょっと、言い過ぎたかな…)
ここまで乗ってきたのだから、車庫まで誰か運転しないと帰れない。
「分かった。僕が運転する。その後、津守さんの家から最寄りの駅まで、徒歩でいいから案内してくれればいい」
感情的に怒鳴りつけてしまった罪悪感も手伝って、ついそんな提案をしてしまった。
「やった! お礼に晩メシオゴる!」
一瞬で彼は表情を変えた。
(もしかして、僕はノセられたのか……?)
それは、とんでもない安請け合いをしたのでは、と不安になってしまうほどの豹変ぶりだった。
さて、この場合お調子者は一体どちらの方だったのだろうか。