Recollection.16 完敗

 午前5時30分。
 朝食を摂り終えると、明人は七海を送ると言いだした。
「もう抜糸も済んでるし、別に運転しても問題無いでしょ?」
 彼は意地悪く笑って言った。
「…まあ」
 怒鳴り散らしたのを根に持っているようだ。
「じゃ、いこっか。何時に間に合えばいいの?」
 明人がエンジンを掛けた。
 先日は七海が運転した車だ。
「6時半」
 45分には、当直から日直への申し送りが始まる。
 それまでに着替えて医局に入らなければならない。
「じゃあ、全然余裕だな」
 明人の家と七海の家のほぼ中間に、桜川病院がある。
 時間にすると、双方30分程度。
 早朝の道路は、日中ほどの混雑ではないものの、それでもそれなりの交通量があった。
 運転を始めてすぐ、明人は煙草に火を点けた。
 右手にハンドル。
 左手に煙草。
「片手運転、危ない」
 顰めっ面で七海は明人に注意した。
 しかし、そんな言葉はどこ吹く風。
 明人は知らん顔で煙草を吹かしている。
 ケガが無くても、どうやら彼は日常的に片手運転のようだ。
(ケガが無くても…ケガ  あ、 )
 昨夜、どさくさに紛れて忘れてしまっていた、本来の目的を思い出した。
「明人、約束のケガのことだけど…訊いて良いんだよな?」
 そもそも、自分が取り忘れた診療記録の為に、髪を切られる約束をしたのだ。
 実際は髪どころでは済まなかった訳だが。
「えー? やっぱ訊くのぉ?」
 大袈裟に嫌そうな声で明人が応えた。
「当たり前だろ! 何の為に、僕が  
 無い時間を無理矢理作って、髪も切られて  
  カラダまで張ったのに?」
 揶揄い口調で明人が言った。
「それは条件外だ!」
 あれは、成り行き。
 それ以上でもそれ以下でもない。
「あっ、そうなんだ。あれは数に入ってないんだ。よかった」
(何が!?)
 無言で運転席を睨みつけると、明人がへらっと笑った。
「条件外ってことはさ、髪と違ってモデル期間が終わってもアリってことでしょ?」

    あ。

(しまった)
 そういう風に取られるとは、思わなかった。
 ただ、そんな事で身体を張るものか、と言おうとしたつもりが、余計溝にはまっている。
「あっはっは。その顔! 考えてなかったんだ!」
 おかしそうに笑っている横顔。
 運転中でなければ、蹴り飛ばしてやりたいくらいだ。
「これ以上からかうと、殴られそうだな。  ま、約束だから仕方ないか。何でも話すよ。ただし、俺と七海の間で話しを完結させてくれるならね」
 そう言って、彼は既に3本目になる煙草に火を点けた。
(やっぱり、こいつ…バカじゃない)
 へらへらと笑いながら、馬鹿みたいな口調で人を揶揄いながら、それでも、明人は隙を見せない。
 隙だらけになっているのは、むしろ七海の方だった。
 最初にペースを乱されてから、ずっと向こうのペースだ。
 今も、先に彼は、七海にきっちり釘を刺した。
 ここで話す事は、この密室から洩らすな、と彼は言ったのだ。
「分かった…最初の約束は守る。誰にも言わない。カルテにも書かない。僕の推理が合っているかいないか、それが分かれば納得する事にする」
 七海の、口外しないと言う言葉を確認して、明人はやっと本へと話を進めた。
「それで? 七海は何だったと思ってるの?」
 教師が生徒に出題してるような口調だ。
「刺創…刺し傷。しかも、加害者が、いる。事故じゃない」
 あの日、明人を病棟に申し送りしてから、ずっと気になっていた事。
「あらら……声、掛けなきゃよかったかな」
 明人が苦笑した。
 確かに、あの日呼び止められなければ、きっと不審に思いつつも追求する事はなかっただろう。
 つまり、それは七海が正解を言い当てたという事だ。
「さっきも言ったけど、僕は誰にも何も言わない。第一、今更その傷口を再鑑定させろって言っても、明人は承諾しないだろ」
「まあね。口外した時は、正面から七海の診立てを否定するよ。あの時、七海は大してカルテに何も書かなかったし、輸血も無かった。多分、有力な記録は無いんだろ?」
「……まぁ…ね」
 明人の読みは的を得ていた。
 七海はあの時、ほとんど記録を付けていなかった。
 はっきり言って、七海自身もそれほど多くの外傷を見てきた訳ではない。
 何せ、まだ医大を卒業して半年足らずだ。
 事件性のあるような外傷にお目にかかる機会など無く、明人の傷がそうだという確信は無かった。
 あの時は、とにかく処置する事で手一杯で、頭の片隅に引っ掛かった疑問にまで手が回らなかった。
 しかし  
(失敗した…。これは、診察室で確認して、診療記録に書かなきゃいけない事だった)
 もしかしたら、明人に自覚が無いだけかもしれないが、彼はあの日、危うく命を落とすところだった。
 事の次第が明るみに出るのを恐れて、病院にすら訪れず出血が止まるのを待っていたら、確実に死んでいた。
 七海は、法医学の知識は浅いが、それでも気になっていたことがあるのだ。
 左前腕に刺創。
 それが意味するもの。
 三角巾でつるした時の腕の傷は、ちょうど彼の心臓の上で固定されていた。
 それが、防御創  明人の抵抗した結果だったなら、相手は、彼の左胸にハサミを振り下したのではないだろうか。
 七海の誇大妄想でなければ、彼は自分に殺意を示した相手をかばっているということだ。

 しかし、この事件の真相が明かされたとしてもそれは、この小さな鉄の箱に閉じられておしまい。
 例え、七海が約束を反故にしてしかるべき機関へ報告したとしても、診療時にどうして記録を取っていないのかと問われると弱い。

 袋小路だ。

 未熟な自分の中途半端な診立てが、悔やまれてならない。
 これは、七海の完敗だった。


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