Recollection.20 Self control

 午前7時。
 申し送りを受け、業務開始だ。
 しかし今日は通常の業務ではなく、冠動脈バイパス手術に入る。
 一応、第2助手の身分だが、実際は見学に近い。
 実習の医学生達と同じく、見ているだけで終わるだろう。
(いや、もしかしたら縫合くらいは…させられるかもな)
 何にせよ、医学生と差を付けるために与えられた助手の肩書。
 それほどの実は無い。
「常盤木先生、おはようございます」
 引き締まった声。
 看護師の田島だ。
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
 七海は深々と頭を下げた。
「いいえ。私でお役に立てるならいつでも。今日はよろしくお願いしますね」
「田島さんがオペ看ですか。心強いですね」
 さっきと違って、今は心から笑えた。
 本当に、ホッとしている。
 彼女は救急認定を取る前は、手術専門看護師だった。
 だから、大きなオペになるとこうして呼ばれる事が多い。
 彼女もまた、恭介の遠大な計画の重要な駒の一つだ。
 手術に強い、冷静なベテラン看護師。
 ERに必要不可欠な存在である。
 後は、身体機能を自在に操れる麻酔医と臨床工学士。
 蘇生術に長けた、オールマイティな救急医療の専門医。
 それら各部門のエキスパートに摩擦を起こさせない、潤滑油的な役割を担う事が出来、なおかつ腕の良い外科医。
 そして、それを問答無用で束ねられるカリスマ。
 それが、渡辺恭介の構想しているERの医局。

(はっきり言って…ちょっと荷が重い…かな)

 手術衣に着替えながら、七海は溜息を吐いた。
 彼が七海に求めているのは、あらゆる事態に即応できる救急専門医。
 天国の門を蹴飛ばして患者を取り戻す役目。
 とてもではないが、自信は無かった。
 それは、七海自身が医療そのものを決して崇拝していないからだった。
 父親を交通事故で亡くした時、レスキュー隊も、救急隊も、医師も、自分も、誰も救う事が出来なかった。
 医学は、万能ではない。
 学ぶより先に、絶望している。
 だから七海は、最先端医療を探求している研究者にも、第一線で戦う医療者にも、共鳴も同調も出来なかった。

 今はただ、血の色の鎖がその身体を繋ぎ留めている。

「常盤木先生、もうすぐオペ始まりますよ」
 田島に声を掛けられ、七海は我に返った。
「あっ、すみません」
 少し、ぼんやりしていたようだ。
「やっぱり、昨日は大変だったんじゃありませんか?」
 彼女は、少し心配そうに七海の顔を覗き込んだ。
「いえ、大丈夫です。ちょっと資料整理のことで、考え事をしてしまいました」
「そうですか? ならいいんですけど」
「…田島さん、変なこと訊いていいですか?」
「何ですか? お答えできることなら良いのですけど」
 田島が、不思議そうな顔で七海を振り向いた。
「僕は、医者に向いてるんでしょうか」
「そのおっしゃりようは、さては渡辺先生ですね?」
「はあ…まあ…」
「買われてらっしゃいますものね。プレッシャーに感じてしまいましたか?」
 彼女は、七海が彼と親戚だということを、もちろん知らない。
 客観的には、『買われている』ということになるらしい。
「プレッシャーに感じるほど…僕には積極性が持てないんです」
 そう、ただ迷っている。
 そんな七海の台詞に、彼女は小さく笑った。
「このテーブルに横たわる人は、大学で実習にお付き合い頂いた献体の方々とは違いますよ。 まだ、生命のある方々です。私たちが失敗したら、途切れる未来をお持ちの方々です。やり直しは利きません」
「人は…死にます。僕は、それに関わっていく自信が、まだ持てません」
(あなたは、それが重くないですか?)
「常盤木先生、私は一技術者です。技術者として、一つだけ分かることがあります。 己を知ること  それが出来ない人間は、プロにはなれません。己の限界を知ることで、人はより高みを目指すことが出来ます。 そして、セルフコントロールの力を身に付けることです。別に、医療者に限ったことではないですけれど、それが、プロになる最初の一歩です。 常盤木先生は、自己確認する能力を既にお持ちですよ。 自分がどこで立ち止まっているのかお気付きになられれば、次の一歩を踏み出す位置も、自然と分かりますよ」
 彼女が力強く笑った。
 強い、と、感じた。
 それは、積み上げた経験が裏打ちするものなのか。
 田島夏枝という人物が持って生まれたものなのか。
 両方か  
 自分は、そんな風になれるだろうか。
 疑問と不信と絶望を抱いたまま、そこまで歩き続ける事が出来るだろうか。
 七海は、高い山の前に立っているような気持ちになった。
「常盤木先生」
「はい?」
「髪の毛、サッパリしましたね」
 田島が突拍子も無いことを言い出した。
「そうですか?」
 首を傾げつつも無難に言葉を返した。
「入局以来、一度も散髪行ってなかったでしょう」
「まあ…」
 そんな暇も無かったので。
「スッキリしただけでも、無駄じゃなくて良かったじゃないですか」
「?? そうですね」
 そう言って、七海が大きく一つ深呼吸をした時、オペ室のドアが開き、本日の執刀医が入室してきた。
 恭介の医大時代の後輩だと言う外科医、確か、小田切と言ったか。
 他病院から引き抜いてきたと言う人物。
 組むのは、今回が初めてだ。
「それでは、術前カンファレンスを始めます」
 執刀医の放った一言で、一気に空気の密度が濃くなった。

 まだ何一つ確かなものは持っていないけれど、その瞬間の空気だけは、好きだった。


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