Recollection.15 Face off

 翌朝、七海は、窓の外を通る車のタイヤの音で目を覚ました。
 薄く開いた目に映る、見慣れない木目の天井。
(何…? この、古臭い蛍光灯…)
 次の瞬間、七海は跳ね起きた。
「……あ……そう…か………」
 昨夜の記憶が鮮明に蘇る。
(そうか  
 目蓋に蘇る残像はくっきりと輪郭を表しているのに、夜が明けた途端、それはまるで夢の中の出来事だったかのように、現実感を失っていた。
 とりあえず夢ではなかったことは、ひどく怠い身体が証明している。
 ただ、身体の怠さに比べて頭の方はやけにすっきりとしていた。
 自分の中にもやもやと渦巻いていた何かが、蒸発してしまったような感じ。
 雑多なものが全て取り払われ、核だけが残っている感じだった。
 奇妙な空虚感に包まれながら、七海はゆっくりと身の回りを確認し始めた。
 何気に手で床を撫でると、何故かそれは柔らかい肌触り。
(畳…じゃない…?)
 いつの間に敷いたのやら、七海が寝ているのは布団の上だった。
 周囲を見渡すと、敷布団から完全にはみ出した畳の上に、明人が転がっている。
 どうも、寝床を譲ってもらったようだ。
 昨夜のままの身体の上には、薄手のタオルケットが掛けられていた。
(あ、今…何時なんだろう?)
 室内を見回し、時計を探す。
 まだ、明け方の4時半だった。
(良かった…)
 この時間なら、出勤時刻に遅れなくて済む。
 タオルケットを被ったまま布団から這い出た七海は、昨夜自分の脱いだ服の入った籠を探し出し、手早く服を着た。
 日常的には笑えないくらい寝起きの動作が鈍い七海も、この時ばかりは素早かった。
「……っれ、もう起きたの?」
 七海が荷物をまとめていると、明人が起き上がってきた。
 意外に寝起きが良いようだ。
 先に目を覚ました七海よりよほどすっきりした顔をしている。
 七海は些細なことで目を覚ます割に、目を開けてからぼんやりしてる時間が長い。
「まだ、時間に余裕ある?」
 明人の方は昨夜のことなどまるで意識していないらしく、全く変わらない素の顔をしていた。
 この様子では、彼にとっては珍しくも何ともない事なのだろう。
(よく分からないけど、多分…慣れてんだろうな)
 生憎、七海にとってはどうにも不慣れな  というか、初めてのシチュエーションだったので、どんな顔をしたものだか分からない。
「あ、もしかして急ぐ?」
 七海が返事を出来なかったので、明人がもう一度反対方向に問い直した。
「いや、まだ、大丈夫」
 どうしていいのか分からないまま答えたら、結果的にそれは無表情になった。
 しかし、相手の方はそういう葛藤に非常に無頓着だった。
「じゃあ、朝飯より先にちょっと一服していい?」
 そう言いながら、彼は左手で煙草を持つ仕草を示している。
「ああ…どうぞ」
 どちらかというと煙は嫌いだが仕方ない。
 部屋の主が自室で吸いたいというものを文句も言い辛い。
 しかも、台詞から察するに、どうも一緒に朝食も摂るつもりのようだ。
 七海の承諾を得た明人は、小さな箱と100円ライターを手に持って、ベランダへ出て行った。
 一人住まいだというのに、喫煙は外らしい。
 おかげで、煙に咽ることにはならずに済みそうだが。
 不思議そうな顔で七海が明人を見ていると、彼は、煙草は吸うけれど部屋の中がヤニで汚れるのは嫌なのだと言った。

 外は、晴れている。
 あまり、風は無いようだ。
 煙草の煙は、ほぼ真っ直ぐ空に昇ってゆく。
 普段の落ち着きの無い話し方に比べて、彼は随分ゆったりと紫煙を相手に戯れている。
 それは、明け方の空の色と、燻る煙と、白いシャツの背中が一つに溶けたような沈黙だった。
 その沈黙こそが、本当の津守明人なのではないだろうか。
 七海はその時、漠然とそんな風に感じた。

  5分ほど彼は煙を弄び、その後いつもの軽い口調で部屋の中へ戻ってきた。
「おまたせー」
 その足で、台所まで足を進めて腰を屈めて冷蔵庫の中を覗き込んだ。
「食パンくらいしかないけど、朝メシそんなんでいい?」
 振り返った彼は、缶コーヒーを2本と、食パンを手に持っている。
「いや…別に、要らない」
 何か食べようかという気分ではない。
「あららら、ダメっしょ。お医者さんがそんな不摂生しちゃ。3食ちゃんと食べないと」
 そう言いながら明人は七海にコーヒーの缶を手渡し、返す手でトースターに食パンをセットした。
 わざと選んで購入したのか、単に物持ちがいいのか、それはとてもレトロな、時間が来ると中からパンが飛び出すタイプのものだ。
 七海は渋々手渡されたコーヒーの缶を開けた。
(ああいう言い方をされると…断り辛いんだよな)
 寝起きで喉が渇いているところへ、甘ったるい缶コーヒーは、結構きつい。
 軽快なベル音を鳴らし、トースターから食パンが飛び出した。
 パンにマーガリンを塗りつけながら、明人は鼻歌混じりだ。
 それは、昨夜、アパートの前に長く停まっていた車から洩れていたのと同じナンバーだった。
 歌に引き摺られて、昨夜の記憶がより鮮明に蘇ってきた。
 まだ身体にリアルな感触が残っている。
 顔を上げると、明人は普通の顔で食パンを齧っている。
 自分の中にだけ、余韻が残っている。
 そう思うと、我に返るというのか、急に居心地が悪くなった。
(でも…まさか、男に口説かれるなんて考えてもなかったな)
 しかし、それより意外な事実は、思ったほど拒否反応を感じていないことだ。
 この現実を受け入れてしまっている。

 七海は、順応してしまっている自分自身に戸惑いながら、残りのパンを齧った。


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