Recollection.13 本能
「ちょっと整えようか」
一通りカットした後、ベランダで細かい髪の毛を払った。
今は、再び鏡の前。
「もう後は切り残しを整えるだけだから、すぐ終わるよ。 もう一回、目瞑って」
明人の言葉に従い、七海は目を閉じた。
しゃくしゃくと金属の合わせ部分のこすれる音がやたら大きく響いている。
前髪を落としているらしく、時々、冷たいハサミが眉間に触る。
自然に、眉根が寄るのが分かった。
「…なんか、そういう顔すっと色っぽいよね。普段すごいおカタい印象だから、ちょっとドキッとするな」
(は…っ?)
いきなりとんでもない事を言われて、咄嗟に目を開けてしまった。
「わっ!」
双方、同時に声が上がった。
七海の目の真ん前に、ちょうどハサミの刃先が来ていたのだ。
「七海、急に眼を開けたら危ないって」
さすがの明人が動揺した表情を見せた。
「ご、ごめん」
慌てて再び目を閉じた。
動悸がするのは、ハサミに驚いたからだろうか。
それとも ?
「ハイ、少しだけ上向き加減ね」
背後から延ばされた明人の指が、七海の顎を軽く引き上げた。
彼の方は当然営業トークだったのだろう。
全く変わり無い様子でハサミを動かしている。
(でも、男相手にそんな営業しなくても…)
自然とため息が洩れた。
七海だけが、動揺している。
それが少し、恥ずかしいような気がする。
「大体オッケーかな。うん、イイ感じ」
満足そうな呟きが聞こえた。
ハサミを置く気配。
空いた右手が、七海の肩に乗る。
ドキッとした。
湿った体温を、身体が勝手に吸い込んでゆく。
明人は一人、鏡の中の七海と対話していた。
目を閉じているため、今の状態が分からない。
七海の視界だけが、暗闇の中。
吸い込まれる体温と共鳴するように、振り幅を広くしていく鼓動。
先刻からずっと身体を覆っている奇妙な浮遊感は、未だ七海を取り巻き続けている。
(あ…だめだ。落ち着かない。早く、目、開けたい)
とにかく早く、この奇妙な感覚を振り払ってしまいたかった。
許可を待てずに開きかけた目を、明人の左手が覆い隠した。
「え…っ?」
「…そのまま」
明人の右手が肩から離れる。
脇腹を撫で下ろし、掌は膝の上に下りてきた。
膝の上の掌は、ゆっくりと繰り返し布越しの膝を撫で擦る。
地面が無くなったような眩暈が、その場所からじわりと滲み出した。
より強く増してゆく浮遊感。
奇妙な熱を帯び始めている、自らの身体。
自分の身体が別の生き物に変化していくような気がした。
開けっ放しの窓から聴こえてくる、外の雑音。
オリコン何位だかのポップスが、近くに停まった車のステレオから洩れ聴こえている。
どうして、部屋の中ばかり、こんなに静かなのだろう。
「七海と、したいな」
明人が、囁くような声で言った。
何を、と
この場面で問い返すのは馬鹿げている。
「…男なんだけど」
だから、七海がやっと絞り出した言葉は、これだけだった。
「知ってる」
微かに笑いを含んだ声が返ってきた。
「あの時、モデル頼んだ時、何で自分なんだ、って訊いたよな? タイプだからだよ。イイなって思ったから、声掛けた。自分が『イイな』って思わなきゃ、イメージ湧かないじゃん」
目蓋を覆っている掌が、熱っぽい。
本気だ。
彼が今していることは、冗談でも何でもない。
七海は、やっと自分が今口説かれているのだと認識した。
逃げるなら、今しかない。
逃げるなら。
逃げたい、なら
分かっているのに、身体は動かなかった。
そして、不思議なほど拒絶感も感じなかった。
どこか、自然な流れとして受け止めている自分がいた。