
scene.6
今一度、忍の存在を確かめた後、千里は足許のヴァイオリンケースを静かに手に取った。
何故かとても厳かな気持ちだった。
それは、記憶の中にあるものより少し重く感じる。
おかえり。
囁く様な声が聴こえた。
千里のものか、ヴァイオリンのものか、音楽そのものか、あらゆる芸術の神からか
自己回帰 今、その長い旅から、千里は帰ってきた。
ケースを開き、艶やかな肌のそれを手に取る。
懐かしい肌触りだ。
そして、以前より遥かに愛おしい感触だ。
「さて、今宵のお客様は貴方一人。リクエストをどうぞ」
サーカスのクラウンの様に、わざと仰々しくおどけて、千里は忍に向かって深々とお辞儀をした。
「……は?」
千里のおどけた動作に付いて来れず、彼は目を泳がせて、誰かに助けを求めていた。
今、ここには二人しかいないのに。
「あーもう。君、関西出身なんでしょー? ノッてよ! …ま、いいや。なんか好きな曲言って!」
さっさと千里は弓を構えた。
「え…」
まだ彼は戸惑っている様だ。
「もー、何か弾いたげるって言ってんの! 好きな曲言って。知ってたら弾くから」
「あ…そうなんだ…。
…じゃあ、入学式の時のでいい」
彼は、あまり楽曲を知らない様だ。
「入学式ね。
あんとき、三曲くらいやったよねー、どれ?
んー、まいっか! 大サービスで三曲メドレーでやったげる!」
背筋を伸ばし、大きく一回深呼吸をすると、千里は弓を構えた。
一曲目は、実は校歌だ。
二曲目は、ドボルザークのヴァイオリン交響曲からメインフレーズの抜粋。
三曲目は、フォーレのシシリアーノ、だった。
弾いている間、不思議な程音が近くに感じた。
弓を伝い、楽器を震わせ、音が鼓動を持って身体を巡るのを感じた。
心地好いその脈動が、大気に溶けるのを感じる。
ヴァイオリン それは千里の二つ目の心臓。
自分の精神が外へ開いていくのが分かる。
ずっとずっと長い間、千里が求めて止まなかった「確信」
(やっと、手に入れた )
短いリサイタルを終え、千里は暫し放心状態に陥った。
忍もまた、その間、沈黙のまま動かなかった。
通風孔から僅かに覗く空は、とうに日が落ちて藍色に染まっていた。
数日前新たに生まれたばかりの三日月は、その身を細く鋭く尖らせている。
通風孔から凍みる様に降りてくる夜気が、火照る身体に心地好い。
「……はー…」
やがて、大きな溜息が口から洩れる。
「気持ちよかった。やっぱり弾きたかったみたい」
それが千里の実感だった。
まるで禁断症状から解放された様な充足感。
自ら進んで遠ざけていたのに、可笑しな事だ。
それは、自分の意志で選び取って初めて得られるものなのだ。
今まで常に、自分が考えるより先にお膳立てが整えられてしまい、自己を求める暇が無かった。
自分の足で立つより先に、腕を引かれて立たされて、足を動かす前に前へ前へと押し出されてきた。
千里は、今初めて自分の足で大地を蹴った。
それは、今度こそ前へ進む為の踏ん切りだ。
楽器をケースに仕舞い、空になった掌を千里はじっと眺め、そして強く握り締めた。
何かを掴み、離すまいとする様に。
顔を上げると、忍が微笑んでいた。
千里は、自らの答えを得た。
きっと忍もまた、自分の中の答えを得たのだろう、と千里は思った。
「 さて、その保護者さんとかち合わせてもややこしそうだし、そろそろ帰ろうかな」
ある種張り詰めていた空気を払う様に、千里は大きく背筋を伸ばした。
そして、いそいそと自分の荷物をまとめ始めた。
その様子ときたら、まるで普通に友達の家から帰る様な気軽さだ。
「あ、うん」
やや放心している様子の野忍が頷いた。
二人で地下室から玄関へ進み、そうっと外へ出た。
自分が、この非現実的な七日間を過ごした洋館を振り返る。
新しく生まれた月の、細く頼りない明かりが煉瓦の壁を照らしている。
夜露の付いた蔦の葉が、控え目にそれを反射している。
主は未だ眠りの中にいるのか、静まり返った屋敷はまるで無人の様だった。
(そう言えば七日間もここで過ごしたのに、初日客間みたいなとこに通された以外はあの地下室しか知らないんだっけ )
とても、とても奇妙な話だ。
「千里?」
いつまでも屋敷を見上げて動かない千里に、忍が訝しげに声を掛けた。
「あ、ごめんね。行こっか」
千里は前に向き直り、あの日 濃い霧の中を歩く様な気分で潜った門を、今日はとても明瞭な気持ちで出て行く。
時間と時間の隙間に滑り落ちた様な七日間が、今終わった。