
scene.3
ここまで千里は、なるべく口を挟まない様に頑張ってきたが、そろそろ限界を感じた。
「忍は、それで良かったの? 住んでいた町から遠く離されて、名前まで奪われて、憤りを感じたりしないの?」
人間が売り買いされるというシステム。
それを、当然の様に受け容れた忍。
どちらも、千里には信じがたい現実だ。
「どうして?」
千里のそんな質問に、忍が笑った。
「え…だってさ、オレは許せないよ。そんな風にさ、人を売ったり買ったり 」
言ってから、千里は自分の言葉に違和感を憶えた。
違う、そんな綺麗事を言いたいのではない。
口に出して千里は後悔した。
これでは伝わらない。
けれど、悔しい事に千里の中に、彼の心に届く言葉は見つけられなかった。
何故なら、千里の中には最初から無かったものだから。
「怖く…なかったの?」
やっと、その質問だけ、見つけた。
人間を ましてや子供を買おうなんて、その目的がまともな訳が無い。
彼は、怖くなかったのだろうか?
「分からない。でも、多分怖くなかったんだと思うよ。その話が出るより前に、顔は見た事あったし…」
「それって、要するにお客で来たことあるってことだよね」
そんな場所に出入りするような人物。
千里はますます良くない印象を抱いた。
「相手の顔を知ってるのって、結構重要だと思う。
少なくとも、あの人は、身体をバラして売る類の人ではないのが分かっていたし」
忍が小さく笑った。
「……ちょっと待って。バラして売るって、何なの…?」
今までの会話の中で、一番理解出来ない一文だった。
「何って…そのままだけど。身体を、パーツに分けて海外で売るんだよ。
あの街にはそこら中に身許の分からない、戸籍すら持たない子供が転がってるから。
親はいないし、誰も面倒見れない。
そうしたら、本人が自力で生き延びるか、何処かに売られるかしか無い。
売られる相手の中にはそういう人種もいるって事」
彼は淡々と答えた。
さも当然の事の様に。
彼の心の中に空いた空洞は、やり過ごしてきた現実の重さそのもの。
「…ごめん」
しまった、と思った。
千里の信条とは別に、人には立ち入ってはならない場所がある。
触れてはならない傷もある。
「別に、良いよ。俺が話すって言ったんだから」
忍は立ち上がり、通風孔の方へ歩いた。
千里には想像の出来ない世界が、そこには確かに存在している。
人を物の様に売買する。
その気の違ったような流通形態は確かに存在している。
そして目の前にいる、自分と同じ年の少年はその世界を受け入れ、その中で生き抜いてきた。
そこに、傷が無い訳がない。
それでも、問いたかった。
「本当に、怖くなかった…?」
再度投げられた千里の問いに、忍が苦笑した。
「…未だに自分でもよく解らないんだけど、あれも一種の一目惚れだったのかな…」
彼は、独り言の様に呟いた。
そして、千里に背を向けたまま、大きく背筋を伸ばした。
「一目惚れ? 相手は人買いだよっ!?」
忍のあまりにも意外な科白に、千里は思わず寝台から立ち上がり、その肩を掴んだ。
「厳密には、買いに来る前に、だけどね。 初めて来た時に、多分」
千里の大げさな反応に、忍が可笑しそうに笑った。
「えっ、今の話にそんな要素あったっけ!?」
千里には、どう考えてもある様には思えない。
「初めてあの人が店に来た時、玄関先でほんの一瞬…ほんの一瞬目が合って
何か言いたそうに口が開いたんだけど、言葉になる前にあの人…他の仲間に店の奥に押し込まれてしまったんだ」
一呼吸置いて、言葉を繋げる。
「その後ずっと気になって仕方なかった。
あの人、あの時何を言おうとしたのかな、ってね」
やっと千里の方を振り返った忍が、小さく笑った。
「気になって、気になって、気になって
そうするうちに…何故か、この人きっと俺の事迎えに来てくれるって…思えてきて…。
後から…つい最近になってから分かったんだけど、俺はどうもあの人の、死んだ恋人にそっくりだったらしい。
だから多分…あの時俺の顔を見て、驚いたんだろうね。それで、声を掛けようとしたんだと思う」
彼は確かに微笑んでいた。
けれど、それは笑顔なのに、それは何処か寂しい色をしていた。
また、とても寂しげではあったけれども、同時にとても穏やかで、千里は一瞬見惚れてしまった。
この世に、穏やかな哀しみが存在するのかと、千里はある種の感動を憶えた。
「実はね、さっきも言ったけど、その当時の俺は、色や音がほとんど認識出来ない状態だった。
だけど、あの人…志月の事は、認識出来た。
…初めて訪れた、あの日、
声も、顔も、残り香さえも。
あの人が、俺を外の世界と繋いだんだ。
例え、あの人にそんな気持ちが無かったとしても、それだけで、俺は充分救われた。
だから、彼の事は怖くなんて無かったよ。 だけど…」
忍の言葉はそこで一度途切れた。
また、彼は千里に背を向け、窓の外を見上げた。
窓の外から僅かに覗く空は、いつのまにか夕暮れの朱に染まっていた。
彼は、大きく一つ深呼吸した。
「 俺は、志月を救えない」
背中を向けた忍が、本当は泣いているのではないか、と千里は思った。
この地下室で過ごしている間、ずっと感じていた無明の孤独 そして、世界が深く閉ざされた様な閉塞感。
音も光も無い 全てから隔絶されてしまう恐怖。
それは、忍の抱えていた闇そのものだった。
「俺じゃ、救えない…。その事に気付いてしまったんだ」
やっと千里の方を振り返った忍の顔に涙は浮かんでいなかった。
けれども、そこには無色の哀しみと、真っ黒な絶望が横たわっていた。
「どうして!?」
千里は思わず忍の方へ詰め寄った。
「俺が、彼女と似過ぎていて、彼女ではないから」
「そんな…」
やっと繋がった彼の世界が、そんな絶望的なものだなんて。
「それじゃ、忍はちっとも救われてないじゃないか! それだけ想ってて全部が無意味だ何て話、ある!?」
忍の腕を掴み、その目を覗き込んで、精一杯否定した。
「千里、もうとっくに壊れているものを、懸命に繕っていたんだよ。
もういない人の代役なんて…本当は存在しちゃいけないんだ」
忍が微笑む。
彼は何故、こんな時に笑うのだろう。
「そんなの、」
「それを」
更に反論を試みようとした千里の科白を遮って、忍が更に言葉を重ねた。
「気付かせてくれたのは、千里だよ」
思いも寄らない処で話が自分に繋がり、千里の頭が真っ白になった。
忍の腕を掴んでいた手がするりと落ちる。
(え…!? えええ!?)
一体、いつの間にそんな大それた事をしたのだろうか。
千里には見当も付かなかった。