
七年前 ― 志月 ―
scene.1
高校を卒業した四月の初め、東条志月は、元級友である背尾篠舞と正式に婚約した。
この事実に一番驚いたのは、志月にもっとも近しい友人である川島宏幸だった。
反対に最も驚かなかったのは、背尾篠舞に最も近しい友人、橋倉弓香だった。
婚約の話を聞かされた弓香は、ただ一言「やっぱり?」とだけ言ったらしい。
その時初めて志月と宏幸は、あの篠舞と割合に一般的な女子というイメージの弓香が、こんなにも長い間女の友情を育んでこられた理由が解った様な気がした。
そして、その年の九月 背尾篠舞は南米行きの飛行機に乗った。
彼女自身の夢の実現の為に
空港で篠舞を見送った後、志月と宏幸と弓香の三人は空港の喫茶室で休憩を取った。
「行っちゃったねぇ…」
しみじみと弓香が言った。
「マジで行くとは思わなかったな、俺」
宏幸が溜息を吐いた。
婚約して半年後、その相手を一人置いて留学 確かに、余り一般的な行動とは言えないだろう。
「さすがに、私も少しくらい迷うかな? とは思ったんだけどね」
弓香も溜息を吐いた。
志月は、二人の台詞を無言で聞いていた。
篠舞が旅立った事に関して言えば、弓香よりも志月の方が落ち着いていた。
そして、理解していたと言える。
彼女は、志月の求婚に対して、こう答えた。
いいよ、結婚しても。でも、条件を出してもいいかな。
志月はとても器用で、何でもこなしてしまうけど…それが自分自身を縛ってるよね。
私を選んでくれるなら、志月の未来も選んであげて。
私はこんなだから、どこでも飛んでっちゃう人間だから、縛られたままの人と一緒にはいられないよ。
志月の答え、待ってるよ。
彼女が何を指して言ったのか、志月はもちろん解っていた。
三年生になり、それぞれの進路がはっきり示され始めた頃から、篠舞はいつも物言いたげにしていた。
家に内緒で美大予備校に通い、そのくせ進路調査の第一志望の欄には、某大学の経済学部と書いている、その矛盾。
三年間の、ささやかな反抗と自由が終わる。
悪足掻きしている。
もう少し、後もう少し。
家族の期待を裏切りたくない。
けれど、自分を誤魔化し切れない。
そんな矛盾を、彼女は隣で見ていたから
散々迷った末、志月は結局、兄が卒業した大学の経済学部に進学した。
美大を諦めたのは、それが家から提示された交換条件だったからだ。
実は、高校卒業が近づくにつれ、徐々に持ち込まれる縁談の数が増えていた。
だから、先手を打って志月から篠舞の話を両親に持ち出したのだ。
その時に、最低限の条件として、『家業に入り、兄の手助けを』と提示されたのである。
『結婚相手を自由に選んで、家業を手伝う』か、
『職業を自由に選んで、実家にとって有益な家の娘を嫁に貰う』。
(篠舞は、こういうものを一番煩わしく思うのだろうな)
いや、それさえも彼女は気付いているのだ。
だから、あんな事を言ったのだろう。
何者にも縛られるな、と。
彼女にも縛られるな、と。
(そうだろうな)
彼女の出した条件は、実家が出した条件との真っ向勝負だ。
(自分の為に、俺が何か制限を受けるのは、篠舞には一番耐え難いはずだ)
志月は深く溜息を吐いた。
「あ、やっぱり東条君も寂しいんだ!」
突然耳に飛び込んできた弓香の声に思考が切られた。
「え?」
「あれ? 違うの? あ、じゃあ呆れてるのね!」
すっかり現実に引き戻された。そう、つい先刻篠舞を見送ってきたばかりだった。
「弓香~! お前なあ…空気を読め、空気を!」
宏幸が頭を痛そうに押さえつつ、弓香を制した。
「いや、全く寂しくないって事は無いけど、最初から知ってた事だから。 別に、呆れては無いよ」
志月の言葉に、弓香が大きく唸った。
「うーん…。志月くんは、お~と~な~だよね! ちょっと見習ったら!?」
弓香の矛先が宏幸に向いた。
「何言いやがる! 俺のが人間出来てるっての! なあ!?」
「なあ、って そんな、比較されてる当人に同意を求めるなって」
「ああ、そりゃそうだ」
宏幸が大袈裟に肩を竦めた。
「あはは、ば~っか!」
弓香が止めを刺す。
「さーて、帰るか!」
一頻り笑い飛ばして、宏幸が立ち上がった。
弓香がそのすぐ後ろを付いて行く。
何だかんだと言っても、あの二人は仲が良いのだ。
(結局、べったりだなんよな。あいつら)
当てられ、苦笑しつつ、立ち上がり様にふと見遣った窓の外には、南国行きの飛行機が見えた。
答えは、出せるのだろうか?
鋼鉄の翼が滑走路を滑り始める。
重い身体を、それでも重力に逆らって飛び立つ巨大な鳥。
その日志月は、初めて自分の足に重い鎖が付いているのだと、実感した。