
scene.2
更に半年後の四月 志月は南米へ向かう空の上にいた。
篠舞が言う処の答えは、未だ持ち合わせていなかったが、とにかく、一度会って話をしようと思った。
半年掛けて、志月なりに定めた方向について。
一度飛行機を乗り継ぎ、その待ち時間を含めて約十八時間。
空港からタクシーに乗り、更に四時間。
日本を出発して、ほぼ丸一日 志月はやっと目的地、篠舞の通う大学の寮の前に辿り着いた。
何の連絡も無く突然現れた恋人を前に、彼女は呆れ顔で笑った。
「来るって連絡くれたら、空港まで迎えに行ったのに!」
「いや、急に思い立ったんだよ」
それは本当だ。
ちょっとした急展開があって、その事をどうしても篠舞に話したかったのだ。
志月は、普段から旅券は切らさない。
いつ何時、実家の用事で、何処へ行かねばならなくなるか分からないからだ。
お陰で、今回もすぐに飛んでくる事ができた。
それに、幸いと言うか、全くの偶然なのだが、篠舞の通う大学の近くに、志月の実家が経営している工場があった。
だから、さほど下調べをしなくても、比較的すんなり訪れる事のできる国だったのだ。
だから急に思い立っても、すぐに来る事が出来たのだ。
「…忘れてたわ。志月のとこの工場、割と近くにあったのよね」
篠舞が溜息を吐いた。
「勝手が分かる国で助かった。宿も取りやすいし」
冗談めかして志月は笑った。
「あれ? この近くにホテルあったっけ?」
この辺りは観光地では無いので、ホテルなどは全く無いはずだ、と篠舞が首を捻った。
「いや、無かったから近くにある会社の寮に格安で泊めてもらうんだよ」
「格安って…お金持ちの言う台詞じゃないよね!」
篠舞が吹き出した。
「うるさいな! これでも自腹で来たんだからな!」
「あはは、志月、顔が赤いよ!」
ますます篠舞は笑い転げる。 これはいつもの仕返しだろうか。
「あは、ごめ…笑い、止まんなっ、ははは」
「…帰ろうかな、もう」
「ごめんってば! どの道もう空港までのバスが無いよ! ね、そうふてくされないでごはんでも食べに行こうよ」
「ったく、誰のせいだよ!」
「まーまー。さー次いこ!」
そう言って、篠舞は弾む様な足取りで歩き始めた。
彼女にしては珍しくはしゃいでいる様子だ。
そして夕食は、彼女お薦めの、食事も出来て酒も飲める、地元料理の店で食べる事になった。
夕食には少し遅い目の時間だが、さすがバーも兼ねているだけあって、店内は地元の若者で盛況だ。
「シン?」
少し小太りの若い男が、篠舞の肩を軽く叩いて呼び止めた。
どうやら彼女の事を『シン』と呼んだらしいが、その先の会話は、早口すぎて聞き取れなかった。
最も、ゆっくり喋っていたとしても、付け焼刃の語学力では、挨拶程度の言葉しか分からなかったであろうが。
「あ、ごめんね、志月。この人は同じ研究室の先輩で、アルベルトっていうの」
アルベルトは人懐こい笑顔で、志月に握手を求めた。
「ワタシ、日本語分かル…少シ。ワタシ、アルベルト=石塚。初めまして、アナタがシンのボーイフレンド? 話聞くネ…イツモ。 ア! シンは彼女のここでのニックネーム。『shinobu』とても発音難しイ。それで『shin』になったネ」
「はじめまして、よろしく。 『石塚』さんは、日系の方ですか?」
こちらまで釣られて笑ってしまいそうな笑顔のアルベルトの手を、志月はしっかり握った。
「ワタシ、もう三世。おジーちゃんだけが日本人。だから、言葉、あまり上手…ナイ。今、シンから習ってるところネ」
そして、彼は声をひそめて志月に耳打ちをした。
「アナタなるべくコノ国くるべキ。彼女…美人ネ。そして、カシコクて、ヤサシイ。研究室のミンナ、シンのコト好きヨ。いっぱい…いっぱい、心配しなさイ」
人の好さそうなアルベルトが、人の悪い笑みを浮かべる。
志月は手に持っていたグラスを、思わず滑り落としそうになった。
それを見て、アルベルトが笑いながら志月の背を叩いた。
「ゴメンナサイ、ジョーダンヨ! ミンナ、彼女…好き、ホントだけど、仲間…同志。それに、アナタとじゃショーブにならナイネ!」
アルベルトは苦笑いを浮かべた。
勝負にならないとはどういう意味なのか怪訝に思ったが、それを問い返すより早く、篠舞の声が割り込んできた。
「ちょっと、そこ! 何の話してんのよ。やらしいなぁ!」
気づくと、篠舞が冷たい目でこちらを見ていた。
「シン、それシット…ヨ! せっかく会いに来タ…ボーイフレンド、ワタシばかり話シテル。アナタ、それがイヤ」
少し揶揄うような口調でそう言って、アルベルトは篠舞の肩を叩いた。
「違うよ! ヒソヒソ喋ってるからでしょ!」
篠舞は彼の手を軽く払い退け、耳まで赤くしながら抗議した。
照れると耳が赤くなるのは、やはりまだ変わっていないらしい。
「ワタシもう行きマス。それじゃ、楽しイお食事を!」
笑いながら、陽気なアルベルトは退席していった。
すぐ近くの席に、友人がいた様だ。篠舞が、アルベルトの隣に座っている男も、同じ研究室の仲間だと言った。
「アルベルトの隣に座ってる彼、カルロスって言うんだけど、彼のお父さん、志月のとこの工場で働いてるんだよ。
すごい偶然だよね」
篠舞が笑った。
この何もない所に、大きな工場が一軒だけ建っていれば、まあそれ程驚く様な確率でもないのかもしれないが。
「ところで」
場を切り替えるためにか、篠舞は殊更はっきりとした声で言葉を発した。
「本当に突然だよね。いきなりどうしたの?」
何の前触れもなく、こんな遠い国まで訪ねてきた恋人に、嬉しさ半分、訝しさ半分といった処か。
「何って、まあ…日本の大学は今春休みだしな」
つい、はぐらかしてしまった。
きちんと話をしようと思って、はるばる海を渡ってきたと言うのに。
「ああ、そっか。春休みかあ…。もー毎日毎日フィールドワークだ、講義だ、雑用だ、ってバタバタ走り回ってたから、忘れてた。一応、うちの大学も今春休みのはずなんだけどな…。何だか、却って忙しいみたい」
篠舞は大袈裟に溜息をいた。
「でも、何か楽しそうだな」
溜息なんか吐いているくせに、篠舞の目が笑っている。
こちらでの毎日がとても充実している事が見て取れる。
志月は、そんな彼女の姿に苦笑せざるを得なかった。
自分の目標に対して真っ直ぐ歩いていける彼女を見ていると、変に小器用で、要領よく周囲に合わせて生きてきた自分が酷く空虚な存在に思えてならなかった。
喩えて表すなら、志月は人工燈に照らされ続けてきた人間だった。
けれど、篠舞は裸足で太陽の下を歩いてゆくのだ。