
12月19日 ― 忍 ―
scene.1
その日は朝から冷え込んで、朝の天気予報では雪が降る可能性を訴えていた。
一年A組の教室は、異様な程静まり返っていた。
今は四時限目の地理の時間。
忍の席は左窓際の、前から三列目。
彼は、ノートの上に一枚の便箋を広げていた。
そこにはほとんど文字は無く、たった一行短い文章が書かれているだけだった。
十二月二十一日、帰国
(電報でも十分だな)
その短い文章を、忍は何度か指でなぞってみた。
肉筆である事が唯一の救いの様な、素気ない手紙。
(帰ってくるのは、二日後…。千里の事、どうしよう)
手紙の差出人の署名は『東条志月』とある。
忍の保護者の名だ。
忍には血の繋がった家族はいない。
六年前に今の保護者に引き取られたのだ。
普段、その保護者は仕事の関係上、一年の半分以上外国を飛び回っていて、滅多に日本には帰ってこない。
あの大きな洋館に、忍はほぼ一人暮らしだった。
だからこそ、あんな無茶な事も出来てしまったのだろう。
(けど、志月が帰ってくる)
常にあちこちを飛び回ってるせいか、東条志月という人は自宅に帰ってくると極端に出不精になる。
昔、暗室として使われていたらしいあの地下室に近づく事は無いだろうが、食事や着替えを運んでいるのを見咎められると厄介だ。
まるで、親に隠れて動物を飼っている子供の様で、忍は自分で自分が可笑しかった。
(でも…、何で俺は、水野千里が嫌いなんだろう)
あの日まで口を利いた事も無かった。
ただ、時折学校の中で見かけるだけの存在。
(それなのに、何故、こんなに嫌いなんだろう)
同じクラスの生徒でさえろくに興味がないのに、どうして彼だけがこんなに気に掛かるのか、忍自身にも実はよく解らない。
ただ、彼の存在そのものが酷く神経に障った。
それは、触れられたくない箇所を引っ掻かれる様な不快感だった。
「ん、そろそろ時間だな。それでは、今日はここまでにする」
時計を見上げて、教師は教科書を閉じた。
そしてすぐ終業の鐘が鳴った。
「それじゃあ、放課後までに課題のプリントを用意して担任の先生に渡しておくから、次の時間までに解いておくように」
そう言い残して教師は教室を出て行った。
「おい、東条」
机の上を片付けていると、同じクラスの生徒に肩を叩かれた。
友人という訳では無い。
名前もはっきり知らない。
「何?」
「呼び出し。学年章の色、二年生だったぜ」
それだけ告げると彼の方もさっさと離れていった。
このクラスの休憩時間は次の授業の予習で忙しい。
人付き合いの悪い忍があまり浮き立たないでいられるのは、このクラス故と言える。
「はい、東条ですが」
戸口に立っている二年生に忍は何となく見憶えがあった。
「突然悪いな。二年の北尾って言うんだ、初めまして」
目の前に立つ上級生の第一印象は、『人の好さそうな青年』だった。
背が高く大柄な、それでいて温厚そうな風貌はピレニー犬を思わせた。
「あの、何か?」
きっとその時、忍はとても冷たい顔をしていたのだろう。
彼が一瞬言葉を詰まらせ、戸惑った表情を浮かべたから。
「 同じ一年の、水野千里って知ってるかな」
それでも彼は、少し遠慮がちに口を開いた。
(ああ、いつも千里と一緒にいた上級生)
「さあ…?」
「そうか…。じゃあ、四日前の夕方に家の前で雨宿りしてる奴いなかった?
城聖の制服で。結構長い間、玄関先にいたのを見た奴がいるんだけど」
彼はとても懸命に訴えた。
しかし、相手のその懸命な様子が却って忍には苛立たしいものに感じた。
(この人は千里が病欠じゃない事を知らされているんだ。
俺のところに来るって事は、うちの前にいるところを誰かに見られたって事か。
さあ、どう答えようかな…)
一瞬の間に色々考えを廻らせてはみたものの、結局
「覚えがないです」と言う、最もシンプルな答えを返した。
余計な事を喋ると却って勘付かれてしまうと判断したからだが、これ以上話をしていると余計に苛立たしさが増しそうで、さっさと退散してもらいたいと言う気持ちもあった。
「……そうか…。悪かったな、いきなり訳分かんない事訊いて」
忍の言葉に、この上級生は目に見えて萎れた。
「 もし、後から思い出したら悪いけど二のBまで知らせてくれないか?」
「分かりました」
再三念を押して、彼は帰っていった。