
scene.4
午後から降り始めた雪が、薄らと積もり始めたいた。
雪が降ると、何故か世界はとても静かになる。
まるで無声映画の中の様に。
この静まり返った世界が、忍には心地良かった。
学校からの帰り道、傘もないというのに殊更ゆっくり歩いて帰った。
そして家の門扉を開けた時、忍は思わず足を止めた。
「足跡が付いてる」
門から玄関へ続く五メートルばかりの距離に、一人分の足跡が付いていた。
そして、その足跡は片道分しか付いていない。
「…帰ってきたんだ」
それは、間違いなく東条志月の足跡だろう。
何故なら、この家には彼と忍の他に帰ってくる者はいないのだから。
足跡が引き返していないのなら、その主は家の中へ入ったのだから。
彼の足跡をゆっくり辿って扉の方へ歩いた。
忍の足跡は、彼のものより少しだけ小さかった。
家にいる時、志月は大抵二階の書斎にいる。
くつろぎたいのなら、同じ二階の廊下を挟んで向かい側に南向きの寝室があるのだが、何故か彼は北向きの書斎の方にいる事が多かった。
そして、よく窓の外を眺めていた。
「お帰りなさい」
戸を細く開け、身体を半分だけ覗かせて声を掛けた。
オイルヒーターが動く微かな音が聞こえる。
室温があまり外と変わらないので、今点けたばかりなのだろう。
「ああ、ちょうど今帰ってきたばかりだ。予定より、一日早くなった。そんなところで頭だけ覗かせてないで、入ってきたらどうだ?」
志月は鞄の中を整理しながら喋っていた。
彼の事は、忍もよく知らない。
今年二十五歳になる、写真家。
知っている事はそれだけだ。
「あの…制服脱いでからもう一度来るよ。濡れてるから」
忍は戸惑った。
帰路の間に、それなり以上に濡れてしまっていたのだ。
このまま室内に入ると確実に床を濡らしてしまいそうだった。
「この部屋に掛けとけばいい。ヒーターの上にでも掛けとけばすぐに乾くだろう」
そう言って、志月はこちらを振り返った。
そう言われれば、これ以上断る言葉があるはずもない。
「…それじゃ、うん」
結局、雪に濡れたまま書斎に入った。
志月は、つい先刻自分も使ったらしいタオルを手に、忍の立っている方へ歩み寄った。
「髪に雪が積もってるな」
「傘ぐらい差せよ」と言いながら、タオルで髪に積もった雪を払う。
無造作に払われた白い結晶は、絨毯の上に落とされすぐにその形を失っていった。
緋い絨毯の上でそれらは赤黒い点に変わった。
そのままタオルを床に落として、志月は融けた雪で湿った制服の釦を外した。
そして、制服の袖を抜きながら頬に口接ける。
「まるで、身体が雪で出来てるみたいだ」
雪の中に長い時間いた所為で、忍の身体は冷え切っている。
それなのに、同じ様につい先刻まで外を歩いていたはずの志月の手はやたら温かった。
制服の黒い上着が床に落ちる。
上着を落とした手が背中に回され、空いている方の手でブラウスの釦を外し始めた。
その指を追う様に、口接けは頬から首筋を辿り、外された釦の上をなぞっていった。
触れられた場所が熱を持つ。
身体が独特な浮遊感に包まれる。
そんな時決まって、忍の耳には何かを拒む様に頭の奥で何かが軋む音が聞こえた。
その音に苛まれ、いつも意識が混濁していく。
(ねえ、聞いて)
膝の力が抜けそうになり、思わず志月の肩を掴んだ。
ひどくなる耳鳴りを抑えようと、掴む手に力が入る。
(誰かが僕を食べる音がする)
背中に回されていた手が離れ、手首を掴んで、忍の上体を引き倒した。
頭の中を、白く、白くしていく。
(骨の削れる音がする)
力の入っていない身体は容易く床に投げ出された。
絨毯が肌に触れない様に、先刻雪を払ったタオルが背中の下に敷かれた。
背中と床の間から、志月の手が引き抜かれた。
ほんの少し前まで大きな手が触れていた背中に、湿ったタオルが触れた。
背中に、ひんやりした手の形を感じていた。
仰向けにされた目線の先の、高い窓から空だけが映る。
静か過ぎる世界。
遠くから聞こえてくる、肉を食む音。
鋭い刃物が、骨を削ぐ音。
(少しずつ身体が減っていく)
それは忍にしか聞こえない音。
身体が熱を帯びるほど、その音は近づいて大きくなっていく。
(いつか僕はいなくなる)
窓の外では、相変わらず雪が降っている。
ゆっくり落ちてくる雪はまるで無声映画の一場面の様だ。
とても清浄で、綺麗で、そして寂しい眺め。
忍は、自らの精神が何層にも剥離していくのを感じながら、ゆっくりと目を閉じる。
固く閉じた目の奥で、子供が一人佇んでいた。
よく見ると、子供には足が無い。
(だって )
子供が嗤っている。
(もう食べられちゃったもの)
嗤う口だけが見えている。
だからもう、どこへも逃げられないよ)
この子は、誰?