
六年前 ― ゆき ―
scene.1
クリスマス会で思わぬ失態を演じてしまった後、忍はしばらくの間北尾家で休憩させてもらっていた。
日付が二十三日から二十四日に変わる頃、志月が忍を迎えに北尾家を訪れた。
忍は今、帰路を辿る車の中にいる。
北尾が、最後までに丁寧に志月の車を広い通りへ誘導してくれた。
そして、ルームミラーに映った北尾の姿は、そこに映らなくなるまで微動だにしなかった。
その律儀な見送り方が、何とも彼らしい、と忍は思った。
カーステレオから、かなり抑えた音で歌が流れていた。
耳を澄まして聴いていると、辛うじてそれが『天国への階段』だと分かった。
ラジオは洋楽チャンネルになっている。
華々しいネオンがやけに空々しい。
幾つかの信号に引っ掛かり、何度か車は停止した。
車が走り出してから、志月は一言も喋らなかった。
忍はぼんやりと信号の数を数えていた。
やがて、ネオンの群れを抜け、信号と信号の間隔が開き始めた頃、ふと北尾との会話を思い出した。
(そう言えば、先輩は完全に千里が家出だと思い込んでるみたいだったな)
しかも、それが自分の所為だと思い込んでいる様だ。
追求されなかったのは助かったが、あの落ち込みようを見てると少し気の毒だった。
最初はひどくアレルギー反応を起こした北尾のお節介にも、いい加減慣れてきた。
慣れてくると、何処か憎めない人物だと思う様になった。
『またおいで』と、親子で見送ってくれた様子が妙に暖かく、くすぐったかった。
気付けば、本当にそんな機会があれば良い、そんな事を願ってしまう自分がいた。
僅か数日の間に随分流されたなと、驚き半分、呆れ半分の気持ちだった。
彼本人と、そこから想像に難くないあの家の中の空気。
それは、忍に微かな痛みを感じさせたけれど、嫌いではないのだ。
ただ、その空気の中に忍が溶ける事は出来ない。
透明なガラスが隔たっている様に、それは交じりえない。
それだけの事。
だが、北尾もいずれ今回の事件の顛末を、千里の口から聞くだろう。 いずれ、彼を解放する時が来るのだから。
(だから、今日みたいな事は最初で最後だ)
そう思うと少し寂しい様な気もしたけれど、今更どうにもならない。
もっと早くに気付く事が出来たら。
いや、もっと早くに気付いていたなら、同じだけ早く、同じ様に後悔したのだろう。
全ては、忍がそれに気付く為に必要な痛みだった。
("寂しい"か )
それが、その痛みの名前だった。
忍は、自分の中にそんな気持ちが残っていた事が不思議だった。
もう随分と長い間、五感の全ては麻痺したまま過ごしてきた。
わざとそうしてきたのか、自然にそうなっていったのかは忍自身にも分からない。
壊死してゆく自我を、他人事の様にただ眺めていた。
喰い荒らされて消えてゆく自分自身を見ていた。
もう自分は何処にも残っていないのだと、思っていた。
それなのに、
"寂しい"が、残っていた。
呼び覚まされた、最後の感情。
それは、
心のずっと奥の方で、
声を殺して泣いている子供を、
ゆっくりと、
喰い殺していった、
最後の、
獣の名。
掠れた高音域の歌声に耳を撫でられながら、まだ醒め切らない酒精に導かれ
忍は、緩やかに無意識の闇へ滑り落ちていった。