
scene.3
ゆきは、虚ろな幻を映している様な灯りの中、楽しげに行き交う男達の群れを眺めていた。
もうずっと長い間眺めていた。
そうして、あまりにも目に映る世界が虚ろだったので、いつしかゆきの目には色彩が映らなくなってしまった。
同じ様に、言葉が言葉として意味を示さなくなってしまった。
ゆきの目に映る世界は、版画の様に白黒で、そして、質感を持たない世界。
ゆきの耳に届く音は、くぐもってひび割れ、言葉は意味を持たない記号の羅列。
ゆきの心は、まるで金魚鉢の中に閉じ込められた金魚の様に、世界の全てから遮断されていた。
置屋が開いてから数時間が経ち、客の流れも一段落した頃、女将がゆきに声を掛けた。
「奥にマーがおるから、晩ご飯食べといで」
マーというのは女将の息子で、ゆきより二歳年少の少年だった。
「マー! ゆきに夕飯出してやり」
お勝手の方から、やんちゃな顔の少年が出てきた。
「ホラ、早よこいや!」
マーに手を引かれてゆきは裏から屋内へ入って行った。
本当はマーと一緒に店の奥で待っていても良いのだが、ゆきはそうはしなかった。
ゆきは、店先に座りながらずっと"待って"いるからだ。
誰か。
何か。
「ボーっとしとったら、晩メシなくなるで!!」
少し強引なくらいのカで腕を引かれながら、ゆきはマーの後ろを歩く。
そうしている間にも、店先の様子が心を惹いた。
その為に、食事の間中ゆきの心はその場所に無かった。
だって、待ってるから。
" "を、待ってるから。
「ホンマお前しゃべらんな! しょうもないわ」
マーが悪態を吐いた。
その言葉はいつも乱暴だったが、彼は実に面倒見が良かった。
年少の兄弟を守る様にして、年長のゆきをマーが守っていた。
しかし、それすらもゆきにとっては、ただ前を流れていくだけの事象に過ぎなかった。
「ホラ! またボーッとしとるやん!」
ちゃぶ台に並んだタ飯を、ゆきはぼんやり眺めていた。
「早よ食べぇ!」
焦れたマーが、ゆきの小鉢に箸を伸ばした。
「もぉ、食わしたるから、ロ開けえや」
ゆきの口に食べ物が押し込まれる。
ロに物が入ると、咀嚼はする。
だから、二人の食事風景はいつもこんな様子だった。
「ホンマは手ぇ貸すな言われてるんや。遅ぅても自分でさせ、てな。でも、お前ほっといたら飯食わんやろ」
切れ間無く話し掛けながら、マーはせっせとゆきのロに食べ物を運んだ。
それが、日常。
娼館の片隅で寝起きし、ろくに学校へ通う事もできない生活だったが、それでもゆきやマーは、この裏町で生まれた子供の中ではまだ幸運な方だったと言える。
この町の子供達は、毎日の様に何処かへ売られたり、雨露凌ぐ軒さえ無く野垂れ死ぬ事すら珍しくない。
そんな現実が、ゆきの隣で常に息を潜めている。
けれど、その頃のゆきにとっては、死さえ質量の無いものだった。
それは、その対極にあるものを持っていなかったからだ。
生きる事 その肌触りを何処か遠い処に置いてきてしまった為に、死さえも遠い処に置き去りにしてしまったのだ。
生も死も、光も暗闇も、何もかもが遠い処で微かに瞬くばかりだった。