
scene.2
今から六年前、忍はまだその名で呼ばれていなかった。
その頃彼は"ゆき"と言う名で呼ばれ、遥か西の都市にある、寂れた裏町いた。
海に近いその町には昔から枕芸者が多く住み、妓楼と呼ばれる売春宿が軒を並べ、何軒かの置屋が花を競っていた。
その前を川が流れ、町はドブと潮の混ざった匂いがする。
日が落ちると、置屋の店先の提灯に一斉に灯がともる。
そして、番唐格子の飾り窓には、赤い襦袢の女達が並んでいる。
ある置屋の提灯の下に、ゆきは座っていた。
少し大きめの白いワンピースを着せられ、髪にはリボンが飾られ、置屋の店先に座っていた。
「女将、この子も商売物かい?」
通りすがりの男が、冗談めかして言った。
「冗談言わんといて下さいよ! いくら何でも手が後ろに回ります」
女将はケタケタと笑った。
「さぁさ、うちは特別にいい娘ばかりや! どうぞ、寄ってって!!」
男は女将に背を押され、店の中に入っていった。
これから彼は一夜の花を選び、妓楼へ向かい、仮初の恋を愉しむのだろう。
「お一人様ご案内や、お通しして!」
店の奥から、女将の呼びかける声が響いて聞こえた。
その間にも一体何処から湧いてきたのかと思う程、多くの男達が置屋の前を行き交っている。
いつからここにいたのか、ゆきには分からない。
物心ついた時にはこうして座っていた。
ゆきの面倒を見ているのは朱実という名の女だ。
彼女が仕事をしている間、ゆきは店先でこうして待っている。
ゆきは、朱実が自分の母親ではない事を知っていた。
本当の母親の顔を、憶えている訳ではなかったが、周囲から洩れ聞こえる話を繋ぐと、そんな画が出来たのだ。
ゆきの両親が今どこでどうしているのかは、ゆきにも、外の誰にも分からない。
父親は薬の売人をしていたのだとか、大きな失敗をして消されたのだとか、この辺りを統括している組織の金を横領して逃げたのだとか、そんな噂を何度か耳にした。
母親はこの置屋で働いていたが、父親が姿をくらました直後、同じ様にいなくなったのだそうだ。
ゆきは、たった一人この寂れた花街に取り残されたのだ。
朱実はゆきの母親を実の姉の様に慕っていたらしい。
だから彼女が消えた後、ずっとゆきの面倒を見続けている。
ゆきは、朱実にいつも女の子の服を着せられていた。
それは仕事中店先で待たせておくのに都合が良いからだと、彼女は言った。
後から女将に聞いた話だが、それらは昔、病で死んでしまった朱実の妹の服であるらしい。
彼女がゆきの面倒を見ているのは、ただゆきの母親に対する恩義だけではなく、亡くした妹に対する感傷もあるのだろう、と女将は言った。
朱実と二人売られてきた妹は、その時には既に病を抱えていたらしい。
そして、半年と待たずその子は死んでしまった。
為す術も無く死なせてしまった妹。
朱実は、その子にしてやりたかった事を、ゆきにしたいのだ、と。
ゆきには、女将の話がよく分からなかった。
ただ分かるのは、ここにあるものが全て、実の無い影の様なものだと言う事だけだった。
掻き消えた両親。
抜け殻だけを残して消えた、彼女の妹。
仮初の恋心。
全て、うつほの中の出来事だ。