
scene.4
ひどく暑い夏の一日 その日も、いつもと同じ様にゆきはタ刻になると置屋の前に座っていた。
蒸し返る川べりは、他の季節よりも一層きつくドブの匂いを撒き散らす。
まだ日も落ち切らない誰彼時 六、七人程の団体客が置屋を訪れた。
こんな裏町では珍しく身なりの良い客だった。
「女将、久しぶり。また遊ばせてもらうで」
先頭の男が慣れた様子で声を掛けてきた。
若いくせに、随分遊び慣れているようだ。金回りは良さそうだが、品性は今ひとつ 一言で表すと成金と言ったところか。
「よく来てくれはりました。ささ、どうぞ。お連れの方もどうぞ」
他の客も皆、同じくらいの年かさ 大学生くらいの年齢に見えた。
「あの 先輩方、やっぱり俺は戻ります。 こういうのは苦手なので」
そのうちの一人が、入口で足を止めた。ここがどういう所か知らないまま連れて来られたようだ。
「何言うてんねん、うちの合宿で一番の目玉商品やぞ」
リーダー格の男が躊躇している男の背を勢い良く叩いた。
「まさか全くの初めて、でもないんだろ? この男前が! 何事も経験だって、な!」
また別の男がにやにや笑って彼の背中を押した。
どうやら地元の人間なのはリーダー格の男だけのようだ。
他の人間は皆、標準語で話している。
「女将、今日は新入りのための催しなんや。ちゃんとしたってな」
とうとう、その新入りとやらは女将の立つ、玄関先へ引っ張り出された。
ゆきの目の前に現れたのは、およそこんな場所に似つかわしくない育ちの良さそうな大学生。
"ボンボン"と呼ぶにはいささか眼光が鋭い青年だ。
彼は、堤灯の下に座っているゆきと目が合ったとき、ひどく驚いた顔をした。
「 あ」
彼が何事か言いかけた時、他の仲間が彼の背を押した。
「早よ入りぃや! 後がつっかえてんで!」
面白そうにリーダ格の男が笑った。
結局、彼は他の仲間たちに押し込まれる様にして、店の中へ消えていく。
置屋を奥へ通り抜けると、女将が直接経営している妓楼の入り口に繋がっている。
特別のお客は、概ねそちらへ通される。
彼らが通り過ぎた後、ゆきは優しい匂いが残っているのを感じた。
畳の上に頬をくっつけて寝転んでいるような、懐かしい匂いだ。
その匂いに釣られて、ゆきは店の奥に消えた青年の後姿を、いつまでも目で追っていた。
「気になるん?」
女将が物珍しそうにゆきに声を掛けた。
「 いい匂い」
ぽつりとゆきが言った。
ますます珍しい、と女将が目を丸くしていた。
「あんたの口から返事聞くのん、何年ぶりやろか」
何年ぶりというのは大仰な物言いにせよ、ゆきが滅多に喋らないのは本当だ。
「いい匂いがする…」
ゆきは、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「あれまぁ! あんた、ええ鼻してるねぇ。今の子らね、一人だけ関西訛りで話しとった子、山の手にある土建屋の跡取りや。今、関東の大学に通っててな、夏休みになると向こうの大学の友達連れて来るんよ。
高校のころからやから、もう八年くらいやなぁ。まあ、成金やけど金持ちの坊んやし、もっと高級な所いくらでも行けるやろに、変わってるわ。連れて来る友達もいいとこの子ばっかりやし、こんなとこには珍しい上客や。
あの中の誰の匂いかは分からへんけど、あの子らの身に付けるようなもんやから、ここらの女の子らが付けてる様な安物の香水とは訳が違うわなぁ」
女将の言葉に、ゆきはもう答えなかった。
もう、何も彼の耳には届いていなかった。
唯一つ、今鼻先をすり抜けた匂いだけ。
不思議に懐かしいその匂いだけが、彼の心を惹きつけた。
「…あの人」
ゆきは、たった今学生達が消えていった店の奥の方をまっすぐ指差した。
「どの人?」
ゆきの視線を追って、女将もまた店の奥を覗き込んだ。
「……あの人」
女将にはゆきが誰を指しているのか分からなかった様だ。
皆同じ方向へ進んで行ったのだから、無理もない。
あの人。
訳の分からないまま連れて来られて、困惑していた青年。
こんな寂れた裏町では、例え客でも見られない様な人種だった為か、その大学生の姿はゆきの目にくっきりと焼き付いた。