scene.7

 沈黙する二人の間に、カーステレオから微かに聴こえてくるのは、エマーソンのけたたましいオルガンの音。
 それは、今のこの場面には余りにも似合わず、この如何ともし難い居心地の悪さに拍車を掛けた。
 居心地が悪く感じるのは、"嫌われたくない"気持ちが、何処かにあるから。
 彼の感情の向く方向が、自分には無関係だと言い切れないからだ。
 空気が、薄い。
 この車の中だけ、随分酸素が足りない気がする。
 肺に圧迫感を感じて、忍は大きく息を吸い込んだ。
 その時。
 突然、帰路の途中にある公園の脇に車が停まった。
 そして、ハザードが明滅し、ハンドブレーキの掛かる硬い音が聞こえた。
 志月が、ハンドルに額を押し付けて大きく息を吐いた。
「志月…? どうしたの?」
 運転席の彼の肩に手を掛けて忍は問いかけた。
「何でもない」
 志月はすぐに顔を上げ、肩に掛けられた忍の手をやんわりと外した。
 いつもなら人より熱いくらいの彼の手が、この時は信じられない程冷たかった。
 指先が、微かに震えていた。
「あの日も、帰ってこなかった」
 責める様な声が、彼の口から洩れ聞こえた。
(あの日…?)
「冬休みには帰ると言ってたくせに  帰ってこなかった」
 そこまで言われて忍は、それが自分の話ではない事に気付いた。
 帰ってこなかったのは、"篠舞"。
 とうに舞台を降りてしまった主演女優。
「ごめんなさい」
 宏幸のおかげで、自分の役割がより明確になっていた。
 咄嗟に、忍は自らその役を演じてしまった。
 これまでだってそれは同じだったのだろう。
 ただ、忍自身がその事に気付いていなかっただけだ。
 これからは、代役を自覚した上で演じれば良いだけ。
 すべき事も、立場も、何も変わらない。
「……」
 忍の言葉に、志月はまた答えてくれなかった。
「ごめんなさい」
 もう一度、謝った。
 これは、彼女の言葉だ。
 そして、投げ出されたままの彼の左手をそっと握った。
 やはり冷たかった。
「…余裕なんか無いんだ。そう見えたなら、それは装っていただけだ」
 力の無い呟きが洩れた。

 きっとそうなのだろう。
 今はもういない彼女の前でも  おそらく、今も。
 いつでも、精一杯平静を装ってきたのだろう。

 握っていた手を解かれ、逆に彼の腕が首に絡みついてきた。
 何度も繰り返し名前を呼ばれ、謝られた。
 その謝罪の意味は解らなかったけれど、繰り返し呼ばれているのが自分の名ではない事は分かっていた。
 彼から、支配者の仮面が剥がれ落ちた。
 だから忍は、彼女の仮面を殊更深く被った。

 窓の外には、雪。
 破けた羽根枕を誰かが空の上でふるっている様な、柔らかい雪が降っている。
 北尾の部屋の窓から外を見たときは細い三日月が見えていたのに、今はもうどこまでも暗い空が続くばかり。

 今の忍には、千里や北尾の様な"当たり前"の日常も、溝川の底を攫った様なあの裏町の生活も、何て遠いのだろう。  

 生きていく事に現実感が無い。
 何もかもが虚構の上に構築された仮想現実の中。

  余りにも不確かな存在感。

 課せられた役割は、永久に舞台を降りてしまった主演女優の代役。

  彼女の代役は何て難しいのだろう。

 本当に全てが演技であれば、その方がむしろ容易いのかもしれない。
 難しい、と感じるのは、深く被った仮面の下に、彼女と同じ顔を隠しているからだ。

 そして、触れてくる口唇が天国の扉を探しているのを感じながら、忍は静かに目を閉じた。


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