
scene.2
千里の答えを聞いて、忍が微笑んだ。
「そうだな…多分俺も、誰かに話したかったんだ。…ずっと、誰かにね」
そう言って、小さな溜息を吐いた。
そして、更に続けた。
「でも、話を始める前に先に訂正があるんだけど。俺は、千里が嫌いな訳じゃなかったみたいだ」
それは、さらりと言われたが、ものすごい爆弾発言だった。
「はぁ!? 何、何それ!?」
自分の置かれている現状の前提条件が、たった今、随分あっさり瓦解したではないか。
忍から何らかの反感を買った為に、自分は今こうしているのでは無かったか。
「ごめん」
伏し目がちに忍が呟いた。
その口許は微笑んでいるのに、伏せられた目には、とても深い闇が宿っていた。
今は、その発言についてあれこれ追求するより、とりあえず彼の話を一通り聞いた方が良さそうだ、と千里は思った。
千里は、頭ごなしに畳み掛けそうになる衝動を、ぐっと堪えた。
「とりあえず、まぁ…最初から話してよ」
そして、話し始める事を少し躊躇っている忍の、背中を軽く押してやった。
「うん…」
曖昧な相槌の後、忍はこう続けた。
「順序だてて話そうとするとかなり時間が遡るから、千里と全然関係の無い話から始めてしまうけど 構わないか?」
千里の方を振り返る。
「いいよ、いまさら少々の長丁場になったところで大したことないじゃん」
わざと茶化すような千里の科白に、忍は苦笑した。
「それじゃ、どこから話そうか やっぱり昔住んでた町の話からかな…」
そう言って忍が話始めたのは、遠い西の街にあるという、うらぶれた歓楽街の話だった。
それは普通に いや、平均的なサラリーマン家庭に較べるとやや裕福な家庭で育った千里にとっては、まるで絵空事の様な話だった。
「いつからか憶えてないけど…気付けば本当の両親はもういなくて、置屋の芸者の家で暮らしてたんだ」
彼は、順を追ってその町での生活を、簡潔な言葉で語った。
育ててくれたという芸者の話。
彼女が仕事に出ている間、いつも置屋の玄関で待っていた時の話。
彼の、たった一人の幼友達の話。
両親の話がまるで出てこなかったので、千里がそれを訊ねると、それはまるで覚えていない、と彼は頸を横に振った。
どれも、千里には理解しがたい話ばかりだった。
しかし、精一杯理解しようと努めた。
「ずっと、提灯の下に座って、待っていた」
間を空けて、ぽつんと忍が呟いた。
「その芸者さんを?」
話が手前に戻ったのかと思って、千里は問い返した。
「…ううん。別の、誰かを」
彼は力無く首を振る。
「誰、を?」
父か、母か、それとも?
千里は頭の中に幾つかの仮説を瞬時に立てた。
「"誰か"を」
彼の答えは、千里の仮説に当て嵌まらなかった。
「"誰か"を?」
そのまま同じ言葉を繰り返した千里に、彼は深く頷いた。
「長い間、誰かが迎えに来るのを、待ってた。
今日は来ないか、
明日は来ないか、
赤い提灯の下で、ずっと待っていたんだ」
そして、ずっと待っているうちに、彼の目には色が写らなくなり、耳に入る言葉から意味が抜けてしまった、と彼が言った。
「世界が、壊れてしまった」
彼が、その顔を両手で覆った。
壊れた世界を、反芻している様であった。
千里は、モノクロで、音の壊れた世界を想像した。
それは、何と暗く閉じられた世界だろう。
「ずっと待ち続けて、
ある日…あの人が、迎えに来た」
彼は、顔を覆っていた手を静かに外した。
「その…"保護者"さん、だね?」
彼は無言で頷く。
「あの人が、俺を迎えに来てくれたんだ。…そして、ちゃんと名前も付けてくれた」
彼が、宝物の話をする様な顔でそう言った。
しかし、千里は納得いかなかった。
察するに、身内でも知り合いでもない人物が、子供を連れに来るというのは普通"迎えに"とは言わない。
そこで初めて千里は、疑問を投げかけた。
「それって、君…"連れ去られた"って言うんじゃ…」
千里の言葉に、忍の反応は早かった。
「それは違う。置屋の女将さんも、朱実さんも、納得してから、手続きもして ちゃんと出てきたんだから」
自分自身もまた納得していた、と彼は言った。
「もっと悪いよ! それじゃあ君は売られたんじゃないか!」
千里は憤りを露にした。
(手続きって、要するにお金貰って君を手放したってことだろ!!)
心の中で怒鳴った。