
scene.3
(今なら…解る)
忍は溜息を吐いた。
夜気に触れ、それは白く凍り、すぐに闇に溶けた。
(何故志月があんな風に傷ついていったのか、今なら解るんだ)
忍の脳裏を、昨夜の彼の顔が過ぎった。
月光の下 その薄暗がりで、彼の顔は酷く青白く、何かを怖れている様だった。
忍の中から、何かを引き摺り出そうとしている彼の顔は、いつも悲痛と失望に彩られている。
しかし、忍は彼の求めるものを持っていない。
息を潜めて、ただ彼の為に扉を開いて待つ事しか出来ない。
五年の月日を過ごして尚、繰り返される堂々巡り。
ただ堕ちてゆくだけの、出口の無い迷宮。
その答えは、最も皮肉な現実だった。
(志月を苦しめていたのは、俺自身)
忍の存在そのものが彼を蝕んでいったのだ。
篠舞と同じ顔をした子供を見ている事そのものが、緩やかに染みてゆく毒の様に志月を蝕み続けた。
喪われたものと類似したものが目の前にある。
一度はその腕の中に在り、理不尽に奪われ、灼ける様な憤りの中で求め続けた存在と、
とてもよく似た形をした、それとは違うものが目の前にある。
その事実が、彼の精神を破壊し続けた。
もし彼の前に「忍」が現れなかったら
志月の中で篠舞の記憶は緩やかに薄れてゆき、それが透明な結晶となった頃、彼はまた違った誰かと出会い、別の幸福を手に入れたのかもしれない。
志月を篠舞の記憶に縛り付けたのは、他ならない忍自身だった。
あまりにも酷似した人間を目の当たりにして、本来なら朽ちてゆくはずの記憶がまるで澱の様に溜まり、彼の中に留まってしまった。
けれど、今また彼は篠舞を喪ってゆくのだ。
出会った頃の忍は、まだ性も分化しきらない子供だった。
しかし、時間の経過と共に、背が伸び 声も変わり 身体も作られてゆく。
成長の過程で、徐々に「篠舞」は喪われてきているはずだ。
本来女性である篠舞とは、根本的に異質なのだ。
その矛盾が、何よりも志月の精神を苛む。
危うい均衡を保ってきた『何か』が静かに崩壊してゆく、その音が聴こえていた。
彼は気付き始めている。
その手の中にあるものが、求めるものではない事に。
そして、怯えている。
想い人がもうこの世の何処にも存在しない その現実を認めざるを得ない日が来る事に。
複雑に捩れ、絡まった、記憶の糸に守られた、志月の箱庭。
それは、もう限界が近づいていた。
箱庭に置かれた偽物のメッキが、時間の経過と共に剥がれ落ちようとしている。
そう遠くない未来、志月はもう一度彼女を失う事になるだろう。
いや、それはもうとうの昔に喪われているのかもしれない。
黒々と横たわる、避ける事の出来ない現実。
緩やかに傾斜してゆく坂道を一歩ずつ進んでゆく。
後戻りの出来ない一方通行の未来。
徐々に混沌さを増してゆく、彼の記憶の海。
昨夜握った、志月の震えた冷たい手。
(出会わなければ、少なくとも二度『篠舞』を喪う事はなかったのに )
それが、彼の絶望。
そして、忍の絶望。
救われないままに経過していく時間の塵が、ただ積もってゆく。
『彼女』を再び喪う時が来たら、
(その時、志月は…)
壊れないでいられるのだろうか。
忍は両手で顔を覆い、静かに息を吐いた。
(あなたに救われた様に)
(あなたを救いたかった)
どれ程強く忍が望んでも叶わない希み。
何故なら、志月の楽土はここには無い。
(俺は…あの人が壊れていくのをただ見ている事しか出来ないのか)
例え身代わりでしかなくても、僅かでも彼の救いになっているのなら成長などしなくて良いのに。
時間など止まってしまって良いのに。
袋小路に閉ざされた絶望が、忍の中で膨張する。
(俺は、何を望んでる?)
もう一度、自らに問う。
(何を…想う?)
答えは一つしかなかった。
(大切なのは、あの人だけだ)
それ以上は何も望まない。
(ずっと、そう決めていた)
もう一度長い息を吐き切ると、忍は家へ向かう足取りを、少し速めた。