scene.2

 彼との六年間は、とても静かな時間だった。
 当時の彼は、昼間は大学に通い、夜は写真の勉強という、非常に多忙な毎日を送っていた。
 その為、起きている時間のほとんどを、忍は一人で過ごしていた。
 それでも彼は、必ず日曜日を忍の為に空け、出来る限り一日一回は同じ食卓についた。
 今思えば、それは相当大変な事だったに違いない。
 それ以外の時間は、お互い読書している事が多かった。
 多少の読み書きは出来たし、本を読むのに色も音も必要無かったから、読書は楽しかった。
 忍が読んでいたのは児童向けの小説の様な物ばかりだったが、志月が読んでいるのは、ほとんどが研究書だった。
 忍は、真剣な顔で本を読む彼の背中に凭れながら、自分もまた本を読んでいる、そんな時間がとても好きだった。
 そのうち、それに忍に与えられる本に学習書が混じる様になり、忍が学年に見合う学力を身に付けると、志月は忍に学校へ通うように勧めた。
 忍は素直にそれに従った。
 城聖学園初等科、五年生での編入だった。
 正直、忍にとって学校という所は然程楽しい場所ではなかった。
 相変わらず、志月から離れると音も色も不明瞭なままだったからだ。
 それが彼の希望だったから、通っているだけだった。
 彼以外に興味を持てなかった。
 彼の造った箱庭の中にいるだけで、全てが満たされていた。

 それはとても、穏やかで、幸福な時間だった。

 そんな穏やかな生活が変化し始めたのは、一緒に暮らすようになって一年半ほど経過した頃だ。
 折しも世間はクリスマス一色で、街中が浮かれ虚飾に満ちていた。
 忍はこの故郷の歓楽街にも似た喧騒が最も苦手だった。
 時折、あの町で過ごした記憶が、忍を責め立てる。
 通りすがりの人間が、下卑た好奇心で自分に触れてゆく、その記憶が何度も甦るのだ。
 その度に、得体の知れない恐怖と、吐き気が襲う。
 何故か忍は、その事を志月に告げられなかった。
 告げてはいけない様な気がしていた。
 ただ屋敷に籠り、黙って季節が通り過ぎるのを待つ事しか出来なかった。
 静かな屋敷の中から、窓の外の静かな空をじっと見つめる。
 今にも雪が降り出しそうな、薄灰の重い空が忍の身体の上今にも落ちてきそうだ。
 そのうち、冬期休暇が始まった志月が屋敷に留まる様になった。
 彼は、ほとんどの時間を忍の傍で過ごした。
 二人で居間に籠り、パズルを解いてみたり、チェスを教わったり、飽きたらそのまま絨毯の上に寝転がってみたり、気怠くも優しい時間を共有していた。

 そして、あの日  
 この華やかな季節の中でも、最も賑やかしい日に一人の外国人が志月を訪れた。
 その人物に伴われ、日も傾きかけた夕刻に志月は出掛けていった。
 すぐに戻ると言って出かけた志月が夜中になっても戻ってこない。
 一人で留守番の忍は、転寝したり起きたりを繰り返していたが、やがて時計の針が日付を超えた辺りで本格的に寝入ってしまった。
 街中の喧騒などとは無縁の、静かな夜だった。
 いよいよ降り始めた雪が、音も無く空を舞う。
 薄らそれが積もった頃、志月は戻ってきたらしい。
 被っていたブランケットを捲られ、肌に触れた冷気で忍は目が醒めた。
 醒め切らない薄ぼんやりした視界の中に、虚ろな顔をした志月がいた。
 頬を掴まれたかと思ったら、渇いた口唇が触れた。
 酒気と一緒に、甘ったるい花の様な匂いがした。
 外気とは対照的に熱っぽい掌は僅かに湿り気を帯びていた。
 頬から滑り落ち、絡み付いてきた腕に一瞬身体が強張る。
 その瞬間に、元々自分が何処に居たのか、そこに居た多くの女や子供がどんな風に連れられていったのかが、脳裏を過ぎったからだ。
 けれどもその時、伸ばされた志月の手の方が余程震えていた事に気付いて、忍は少し躊躇いながらその背中に腕を回した。
 志月に、そんな風に触れられたのはその日が初めてだった。

 何かを確かめる様に、
 何かを捜している様に、
 ゆっくりと肌の上を滑る指先は、ただ優しいだけ。

 その時の彼は夢でも見ている様で  とても遠い処を見ていた。
 忍の身体に触れていても、心は何処か遠い処に置かれたままだった。
 ただ、その腕から耐えがたい傷の痛みだけが伝わってきた。
 不思議と、その行為に恐怖や嫌悪を感じる事は無かった。
 ただ、何処か遠くに置いてきたその心に自分の手が届かない事が、哀しかった。

 翌朝、目覚めた時、彼はとても傷付いた顔をしていた。
 途方に暮れた顔で、忍から目を逸らした。
(もしかして、俺が傷つけた…?)
 何故かそう思った。
 理由は分からないけれど、そんな気がした。
 それを境に、度々彼は同じ事繰り返したけれども、一度として忍の方を見た事は無かった。
 志月の抱える傷口はますます膿み、その精神を蝕んでゆく。
 どうすれば、その痛みが取り払われるのだろう。
 その為に何が出来るのだろう。
 幾ら身体で受け止めたとしても、塵とも志月は救われていない。
 肌を合わせれば合わせるほど、彼は傷つき絶望してゆくのだから。
 忍はどうにか彼に応えようと彼の心を追ったが、どうしてもそこへ届く事は無かった。
 そうして志月の絶望はそのまま忍の絶望となり、自身の心もまた、彼の中で拡張し続ける暗闇に侵蝕されていった。


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