
scene.5
玄関先どころか応接間らしき部屋へ通され、その上バスタオルと着替え一式まで出され、まるで来客の扱いだ。
「初対面なのに親切だな」とは思うものの、同時に千里は奇妙な居心地の悪さを覚えた。
ちょうど着替えを終えたくらいのタイミングで部屋の戸が開いた。
ふんわり甘い香りとともに、彼が室内に入ってくる。
「タオル、足りた?」
彼の手にはアンティーク調のカップが載ったトレイが有った。
甘い香りの正体はどうやらココアらしい。
「どうぞ」
千里は主がココアを差し出す指をまじまじと見つめた。
(キレーな長い指。いいなぁ、オレちょっと指短いんだよね。
このくらいあったら、もうちょい…。
…………。
いやいや何考えてんだ、もーやめやめ!)
白く長い指先が視界から消え、千里は我に返った。
「ありがと、いただきます」
出されたココアを啜りつつ、千里は、改めて部屋の中ぐるりと見回した。
建物の外観を裏切らず、屋内も大変に古めかしい。
絨毯は勿論の事、ソファやリビングボード、電飾までもがまるで大正時代だ。
(これは、うちのガッコといい勝負だなー。 それに…)
まるで住人までもが調度品の一つの様だ、と千里は思った。
中性的な顔立ち。
決して小柄な訳ではないのに、線の細い印象の華奢な身体付き。
真っ直ぐ伸びた黒髪と、対照的に白い肌。
すんなり伸びた腕や脚。
そして、無造作に伸びた前髪が半分隠してしまっていたけれど、切れ長の黒い瞳は陶磁人形に使われる硝子製の瞳の様だ。
彼そのものが誰かの意匠で造り上げられた造形物の様な、気味が悪い程整った容姿。
綺麗過ぎて怖い、と言うのは本当にあるものだ。
感嘆と緊張が入り混じった様な溜息が、千里の口から洩れた。
「あ、そうだ はじめまして。オレは一年F組の水野千里。
ホントにどうもありがとう。とても助かったよ。
城聖の人だよね? 名前訊いてもいい?」
気を取り直して、千里は家主に自己紹介をし、更に名前を尋ねた。
ココアを淹れる前に着替えたのだろう、黒いブラウスにピンストライプのパンツ姿の彼は、千里の向かい側にゆっくり腰を下ろした。
「一年A組、東条忍。俺はあんたの事、知ってるよ。 目立つから」
彼 忍は、無表情なまま短くそう答えた。
外見には似合わない、少しぶっきらぼうな口調だった。
「えっ? 目立ってる??」
そんなに派手な行いをした覚えはないのに、と千里は思った。
「結構集団でいる事が多いだろ。大概その集団の真ん中にいるから」
抑揚の無く話す忍の声は、千里には些かつまらなそうに聞こえた。
「え? うーん…確かに音楽クラスだから普通科の生徒よりグループ行動が多いけどさ。でも、別にオレが真ん中ってわけじゃないと思うけど…」
(そんなに目立つほどいつも群れて歩いてるかなあ? あ、でも…そっか。こいつA組って言ったっけ)
A組は城聖学園の特進クラスだ。
普通科で席次三十番までの生徒がこのクラスに入る。
(特進って、個人行動してる人多いよね。競走すごそうだし…。だからかな?)
千里の見解は多少偏見があるものの、概ね正解ではあった。
もともと普通科の生徒達は音楽科の生徒達ほどグループ行動を強いられる機会が無い。
その中でも、国立受験組である特進の生徒は特に個人主義者が多い。
受験の前には学生生活の謳歌など何の価値も無いのだろう。
反対に音楽科の生徒は個人技の他にチームワークを求められる場面も多い。
そして、一方で忍が示した内容もまた、的を得ていた。
千里自身はまるで気付いていない事だが、客観的に見て水野千里は音楽クラスの中で明らかに他の生徒を音楽的に牽引する側の存在なのだ。
実力的な事もさることながら、人当たりが良く裏表のない性格と、何事もまず筋を通そうとするはっきりした気性が、周囲の人間を自然と惹きつけているのである。
「千里の周りにはいつも人が集まる。
まるで恒星みたいだ。
千里は、惑いがなく揺るがない、惑星の牽引者だね」
忍が、口の端を微かに上げた。
微笑み なのかも知れないが、彼の目は笑っていなかった。
その声は、明らかに棘を含んでいた。
(何なの…?)
千里は、初対面の相手にいきなり下の名前を呼ばれた事に、まず驚いた。
そしてそれ以上に、毒を含んだ針の様な彼の声音に、とても嫌な違和感を抱いた。
眼前の人物は、無機質な虹彩の奥に昏い色を滲ませて千里を見ている。
それが嫌悪の色を含んでいる事に、千里は気付いたのだ。
少なくとも、彼は自分に対して好意を抱いてはいない。
むしろ、悪意を抱いている。
それなのに、何故彼は千里を家の中へ招き入れたのか。
その意図はあまり穏やかではないのではないだろうか。
ちらりと覗き見た忍の顔は、相変わらず口角だけで微笑みの形を作っていた。
千里は、女郎蜘蛛の糸に絡め取られた様な錯覚に捉われた。
空気が薄くなるのを感じる。
じわりと滲む緊迫感。
(もしかして、これってヤバイ状況なんじゃ…?)
千里の背筋に冷たいものが下りる。
やたら静かな室内は、吐く息の音さえ響きそうだ。
「いや、全然そんなこと ないよ。たまたまそんな感じに見えたんじゃない…?」
千里は忍に返す言葉を慎重に選び始めていた。
タイミングを見計らって早々に退散しようと考えた。
「そう…?」
千里の言葉に、忍は小さく笑った。
それは冷笑だった。
「そうだよ。
それより、オレそろそろ 」
そう答えた後、千里は、突然酷い眩暈を覚えた。
(あれ? なんか、変だ…)
視界が急激に暗くなり、ぐにゃりと酷く歪んでいく。
そしてその隅で、つい今しがた手渡されたカップが床に転がり落ちるのを見送ったのを最後に、千里の意識は寸断された。