scene.3

 級友たちを見送った後、二人は『アナベル=リー』という喫茶店に来ていた。
 お互いの注文したコーヒーが運ばれてきて、一口だけ口を付けた処で北尾が口火を切ろうとした。
「あのな、千里おまえ  
 千里は無言のまま手で言葉を制止した。
「ストップ! 北尾さん、オレは呼び出された理由も話の内容も分かってるつもりだよ」
 軽い口調で言ってはいるが、千里の目は「譲らないぞ」と言っていた。
「分かってないだろ。分かってるくらいなら、今頃こんなとこにいないだろうよ」
「いーじゃん、別に。音楽だけで世界はできてないよー」
 千里が予想したとおりの内容だった。
 北尾は、千里がずっと特講をサボリ続けている事を心配しているのだ。
「それに千里、お前転科願い出したんだって? 普通科に移りたいって」
「なんで知ってんのー?」
 千里は驚いて目を丸くした。
 そう、確かにそんな話を昨日音楽科の教諭に伝えた処だ。
「音楽科の先生に泣きつかれたんだ」
 やれやれ、と北尾は溜息を吐いた。
 千里は、「先生もずいぶんお喋りだな」と、少々ムッときたものの、教師の手に負えなくなったら当人と親しい生徒を使うのは彼らの常套手段なのだから仕方無い、と溜息を吐いて諦めた。
「安心していーよ。それはさすがにやめた。保護者に面談するって言われちゃったから」
 わざとらしく千里は肩を竦めてみせた。
 ただでさえ、やたら学費の高い学校に通わせてもらい、半端じゃない値段の楽器を買い与えて貰っていると言うのに、さすがに聞かせられない話である。
「当たり前だっての!」
「うん、だから音楽科内でピアノ専攻に変えてもらおうと思って」
 そう言って千里はにこっと笑った。
「はあ!?」
「だってもともと副科で取ってたし、主科と副科が入れ替わるのも、別にないことじゃないでしょ?」
 飽くまで軽い調子で千里は続けた。
 この件について、千里は北尾と真剣に話し合いたくなかったからだ。  出来れば軽く流してしまいたいのだ。
「な…」
「だから、そういう事でこの話はおしまい! ピアノ科だとオレ特講対象じゃないから放課後は自由の身ってことで。  ね!」
「ね! じゃない! それじゃ一緒だろ! 結局逃げてんじゃないか!」
 北尾が初めて声を荒げた。
 穏やかな性格をしている彼が、珍しい事だ。
 北尾にしてみれば、つい口を突いて出てしまった科白だったのだろう。
 しかし、この時千里は少なからず驚いた。
 その驚きと、北尾の『逃げてる』という言葉が引鉄になり、ついに千里の顔から笑顔の仮面を剥ぎ取った。
「…じゃあ、なんで北尾さんはアーチェリー辞めたのさ」
 北尾は中等部の頃洋弓部の主将を務めていたが、部活動中の事故の責任を負う形で引退して、高等部に進んでからはずっと帰宅部だ。
「人のことどうこうじゃないじゃん。なんでやんないの? も一回やったらいいじゃん、アーチェリー」
 これには、さすがに北尾も少し切り返しに困った様だ。
 言葉を詰まらせ、彼は一瞬沈黙した。
 しかし、その程度では引き下がる気は無いらしい。
「俺のは別にいいんだよ。千里とは違って、単なる部活だったんだからな。大体、もともと特別才能も有った訳じゃなし」
 年上の親友は、屁理屈の様な理屈を捏ね、反論してきた。
「でも、主将だったじゃん」
 しかし、千里もまた引き下がれない事情がある。
 売り言葉に買い言葉、無意味な言葉の応酬になりつつある。それは千里にだって分かっていた。
「あれは単なる雑用係! 実力とは関係なし! て言うか、俺の事は今関係無いだろ。千里のは  一生を左右する大事な事じゃないか。今逃げたりしたら取り返しがつかなくなるぞ」
 瞬間、千里の思考は凍りついた。
 分かっている、が、人から言われたくない。
 北尾が口にしたのは、そんな一言だったのだ。
「北尾さんにはカンケーないでしょ!?」
 千里は俯いたまま、テーブルの上で両の拳を硬く握った。握ったその手は、白くなっていた。
 千里が感情を露わにしたり、ましてこんな悲鳴に近い声を発するのもまた、珍しい事だった。
 千里の声に、カウンターの中のマスターが力ップを磨く手を一瞬止めたが、すぐにまた何事も無かった様に手を動かし始めた。
 長い沈黙が、店内に横たわる。
 幸いと言うか何と言うか、二人の他に客は無かった。
 マスターは、こちらには一切目を遣らず、黙々と食器を磨いている。
 クラシック音楽の穏やかなBGMが千里の耳にはやけに空々しかった。
「…関係無い、か。そうだよな…悪かった、余計な世話焼いて。関係無いなら、良いんだ」
 やっとの事口を開いたのは、北尾の方だった。
 言いながら笑って見せた北尾の顔が、酷く傷付いて見えた。
 千里もそこまで言うつもりではなかったのだが、口を突いて出る言葉を止める術が無かった。
  そろそろ帰ろうか。あんまり遅くなってもな。おまえんち遠いし」
 そう言って北尾は席を立とうとした。
 しかし、千里は座ったまま立とうとしなかった。
「まだバスの来るまでに時間があるから」
 なるべく普通の顔を作って、北尾に手を振った。
「いいよ、先帰って。北尾さんの乗る地下鉄の駅、反対方向じゃん。それに少し一人で考えたいんだ」
 それも本音だった。
「そうか?」
「うん」
「じゃあ…先帰るけど、気をつけて帰れよ。今日はもう暗くなるし、これ以上寄り道しないように。あ、あと家に電話入れとけよ! 大分遅くなってるしな。
  いや、これは俺が入れた方が良いか?」
 北尾の台詞に千里は吹き出した。
 全く、今時珍しい筋金入りのお人好し振りだ。
「あーもういいから! 自分でするよー、電話くらい。女の子でもなきゃ小学生でもないんだからね! ほら、行った行った!」
 最後まで気懸かりそうな様子で、彼は『アナベル=リー』を出て行った。




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