
scene.4
北尾が去り、三台以上のバスが行き過ぎても、千里はまだ店の中にいた。
日は大分傾き、一日の終わりを告げている。
一時間程そうしていただろうか。
店の外が急速に暗くなり、雨粒が窓を叩き始めた。
「あ、やばっ」
ここから学園前通りまで戻り、さらに最寄のバス停まで二十五分。
例え走ったとしても十五分。
バスが上手く来れば良いが、来なければそれ以上。
その上、バス停には屋根がない。
千里は慌てて店を出た。
西の空には厚く重い雲が重なり、降りが強くなってくるのは時間の問題だ。
実際、初めはぽつりぽつりだった雨足も、学校の前を通り過ぎる頃には道路に水溜りを作る程になっていた。
この季節には珍しい、夕立の様に激しい雨だった。
道路はまるで川の様になり、あちらこちらに大きな水溜りが出来ていた。
雨は、既に制服の下に着ているシャツにまで染み透っている。
(これはどこかで雨宿りしないと…)
そう考えた時、正面から大きなトラックが大きく水飛沫を跳ね上げ、走ってきた。
トラックが千里の真横を通り過ぎようとした時、彼は咄嗟にヴァイオリンのケースを胸に抱き、トラックに背を向けて庇った。
店を出た後すぐに、制服の上から羽織っていたコートでとりあえずヴァイオリンケースは包んだのだが、千里の背丈近くまで跳ね上げられた水を被れば、その程度の防護では一溜りも無かっただろう。
身を呈した甲斐有って、幸い楽器には水が掛からずに済んだ。
しかしその分、制服しか着用していない千里自身は見事な濡れ鼠になってしまった。
(まあ…オレ自身は風邪ひきくらいですむけど、楽器はそうはいかないもんね)
「ホント、オレってハンパなんだなー…」
本当に止めたいなら、楽器など別に水を被って壊れても構わないだろうに、こうして庇ってしまう。
それは千里の中の矛盾。
『止めたい』気持ちと、
『止めたくない』気持ち
シーソーの様に傾いては反対方向に振れる。
前には進めないのに、引き返す程の踏ん切りも無い。
今日はまだ楽器を抱えたまま走っている自分。
千里は奥歯を強く噛み締めた。
「あっ」
足許ばかり見ていた目線を少し上げると、視線の先に玄関ポーチの広い家を見つけた。
千里は、その軒先を借りてこの雨をやり過ごす事にした。
「ふー、やれやれ。…申し訳ないけど、もう少し小降りになるまで雨宿りさせてもらおっと」
包んでいたコートを外し、ケースが濡れていない事を確認する。
(よかったー。全然濡れてないや)
ほっと胸を撫で下ろし、これだけ濡れてからでは遅いのだが、とりあえずコートを羽織った。
「はぁ…さむっ」
息を吐くと、たちまち真っ白になる。
雨宿りできたのは良かったが、立ち止まっていると今にも凍りそうだった。
十二月の気候の中、服のまま水に浸かった様な濡れ方をしているのだから当然の話だ。
むしろ、比喩でなく凍ってもおかしくないくらいである。
(それにしてもおっきな家だなぁ…。家っていうより、お屋敷だよね。どんな人が住んでんのかな)
手に息を吐きかけては擦り、なるべく他処事を考える様にして寒さから意識を切り離すようにした。
軒を借りたその家を見上げると、それは相当古い建物で、今時珍しい総レンガ造りの洋館であった。
建物は二階建てだが、傾斜の強い屋根部分に窓が付いている事から察するに、屋根裏部屋がある様だ。
昨日、妹にせがまれて読んでやった童話を思い出す。
三歳しか年の離れていない妹は、もう童話だの絵本だのを音読してやる様な年ではないのだが、千里がいつも面白おかしく芝居調子で台詞を読むので、それを実に素直に面白がってせがむのだ。
可愛い妹にせがまれれば、千里だって当然悪い気はしない。
そして、さらにエスカレートしてしまうのだ。
母親には、いい加減にやめなさい、としつこく言われている。
(まるで、昨日の童話の中の世界だなぁ…)
白っぽく錆びた青銅の窓枠と、黒い蔦に覆われた古い煉瓦の壁。
魔法使いの一人も出てきそうな
(屋根裏部屋にはお姫様が囚われてたりするんだよね)
見上げると、屋根の中央部分が少し高くなっていて、窓が付いていた。
どうやらそこに部屋がある様だ。
(ホントに屋根裏部屋、あるんだ)
そして、ふと我に返った。
「…っていうか、人住んでんのかな? ここ」
あまりにも古い建物に、とても手入れしている様には見えないほど壁を覆う蔦。
所謂幽霊屋敷の様相だ。
「それにしても…んっとに、寒いっ!」
手足の先の感覚が無くなっている。
歯の根が上手く噛み合わない。
(うわ…も、限界かも…)
思わずしゃがみ込みそうになった瞬間、重厚な青銅色の門扉が開いた。
「 誰?」
住人らしき少年が、門の外へ顔を覗かせた。
何と言う偶然か、彼は千里と同じ城聖学園の制服を着ていた。
「あ…、えっと」
他処様の門の前でしゃがみ込んでいると言う、何とも格好の付かない状況に、千里は一瞬言葉に詰まった。
「ゴメンナサイ、黙って軒下借りちゃって…。あの 」
(〝雨宿りさせて下さい〟ってのは、やっぱ厚かましいよね…)
しかし、今は恥だの外聞だのに拘っている場合ではない。
意を決して口を開こうとした時、彼の方が先に話しかけてきた。
「…雨に降られた?」
特別迷惑に思っている様な口調では無かったが、かと言って思い遣る風でも無かった。
表情も、抑揚のない声も、精巧に作られた機巧人形が話している様だ。
「あ、うん。傘がなくて…」
「……。
中に…入る? 傘なら貸せるけど、そのままの格好じゃ寒いだろ」
館の住人はとても無機質な瞳をしており、どちらかというと素気ない態度であったが、それでも千里を中へを招き入れた。
あまりにもすんなりと屋内に通されたので、千里は安堵する一方、戸惑いも感じた。
(フツウ見ず知らずの入間を家ん中に通すかなぁ?
まあおかげでこっちは助かったんだけど…)
何となく釈然としない様な、腑に落ちない様な、そんな心持ちで、千里は館の主について門扉の奥へと消えていった。