scene.16 惰眠と蛇足

 七海が目を覚ました時には、もう陽は傾いていた。
 薄暗くなった室内に、赤銅色の西日が青紫の影を落としている。
 身体を起こすと、隣に寝ていたはずの人物は気配も無く、部屋の中はただ静かで乾いていた。
 マットの横に脱ぎ散らかされた衣服は、既に七海のものしか残っていない。
「……帰った、か」
 七海は苦笑混じりに呟いた。
 皺だらけのシャツを拾い上げ、とりあえず袖を通した。
(着替えるのは風呂入った後にしよ…)
 とりあえず、何か飲みたいと思った。
 冷蔵庫を開ける。
 中に入っているのは数本のビールと、缶コーヒーが1本。
 そのうち、缶コーヒーの方を取り出した。
 職場ではともかく、普段は家で缶コーヒーを飲むことはまず無い。
 必要最小限以下の家具…家電も置いていない部屋だが、サイフォン式のコーヒーメーカーだけはあるのだ。
 冷蔵庫に残っていた缶は、以前病院で差し入れに貰ったものだ。
 飲まずに放置していたのはあまり好きではないからに他ならないが、この時ばかりは助かった。
 今から手間暇掛けてコーヒーを淹れる気にはなれない。
 かと言って、これ以上アルコールを身体に入れる気も無い。
 水道水ではあまりにも味気無い。
 要するに、ちょうど良かったということだ。
「でも、やっぱり甘いな、コレ」
 一口飲んで、七海は眉を顰めた。
 喉の渇きに任せて半分ほど飲んだが、元が糖分の多い飲み物、それほど渇きは取れなかった。
 人気の無くなった部屋は、がらんとしている。
 殺風景な部屋は、少し温度が下がっているように思った。
「あの性格だから、まさか黙って帰るっていうのは考えてなかったなぁ…」
 七海は溜息を吐いた。
 相手が動揺して青くなっている場面は想定していた。
 だから、適当にごまかす算段は立てていたのだが、まさかこっそり帰るとは思わなかった。
 何せ相手は、生真面目と律儀が服を着て歩いているような人間だ。
 その彼が何の挨拶も無く逃げ出すくらい、ショックを受ける事だったのだろうか。
 そう思うと、それはそれで何とも言えない気分だ。
「次の勤務、ちゃんと出てくるんだろうな、アイツ」
 それが少し気掛かりだった。
 笑い話にする前に逃げられてしまったら、お互いに気まずいままになってしまうではないか。
 そんな事で、僅かながらも築いてきた仕事の中の信頼関係まで壊れるのは嫌だ。
 しかし、してしまったことに対して、今更何を覆せる訳でもない。
(向こうが指導医を変えてくれって言いだしたら、それはそれで仕方ないか  
 ただ、あくまで臨床医になるつもりであれば、救急科の研修を最低2ヶ月修めなければならない。
 この後残り1ヶ月の研修期間、顔を合わせるたび気まずいことこの上ないだろうと思うと、気の毒な話だ。

 それだけのことだ。

 それだけのことに、思ったより落ち込んでいるだけだ。

 相手の反応も予想外だが、それに傷ついている自分自身も予想外だった。
 ただの成り行きだということくらい、十分に自覚していたはずだ。
 七海は大きく溜息を吐いた。
 それでも。
「…ま、いいか。久しぶりに熟睡できたし」
 開き直るしかない。
 いつも、そうしてきたように。
 先に身体で確かめてしまうから、七海の恋愛はいつもこんな感じだ。
 大きく背を伸ばし、七海は細く開いたカーテンを全開にした。
 ついでに窓も開け、部屋の中に外気を通した。
 目覚めた時には僅かにビルの隙間から顔を覗かせていた夕陽も、僅かの間にすっかり落ちてしまった。
 当直明けにここまでしっかり眠れたのも久しぶりだ。
 夜勤が続くと、どうしても眠りが浅くなる。
 数時間おきに目が覚めたり、或いはなかなか寝付けなかったりするのだ。
 まして隣で人が寝ていようものなら、その寝返りですぐに目が覚めてしまう。
 だから、朝に寝て目が覚めたら夕方などというのはとても稀だ。
 部屋はかなり暗くなっていたが、あまり電気をつける気にはならなかった。
 今は、あまり明るみに晒されたくない。
 窓の外、ビルの天辺に点り始めた広告塔やネオンの明かりをしばらく眺めていた。
「もっかい寝よ…」
 勢いよくカーテンを閉じ、七海は窓に背を向けた。


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