scene.9 境界線

 消防からの入電、あるいは外来など二次救急機関からのエマージェンシー。
 その瞬間、ERにスイッチが入る。
 時間の流れ方が一瞬で変わった様な緊張感自体は、嫌いではなかった。
 嫌いではないが、その先にあるものはやはり、重い。
「12心電図、心エコー、パルスオキシメーター、除細動器。
 心筋梗塞からくるVFならリドカインは有効だ。心静止に備えてエピネフリン2アンプル、アトロピン、ドパミン  
 とにかく、可能性のありそうなものは出来るだけ揃えて。
 救急カート内物品再確認。ありません、じゃ済まされないぞ」
 七海がスタッフにGOサインを出した。
 ほぼ役割分担が確定している為、これを合図に皆ほとんど喋らなくなる。
(出来る範囲の準備は、搬送前に終らせられる…でも、多分  
 ある種の予感が拭いきれない。

  『間に合わない』。

 嫌な汗が背筋を伝う。
 緊急度の高い患者を請け負うためのERだ。
 こういう患者が今まで無かった訳ではない。
 ある時を境に、七海は人の命の所在を感じるようになってしまった。
 それが経験から来る勘なのか、それとも生来のものだったのか、それは不明だ。
 危機的状況を知らされた時、時々今のように自分の背後に暗い翳が降りてくる様な、薄暗い予感を感じることがある。

 それは九割以上の確率で『手遅れ』を知らせるものであった。

 患者が担ぎこまれてきたのは、それから5分後だ。
 予想通り、患者の容体は搬送前の報告より悪くなっていた。
 運び込まれる2分前、つまりあの搬送許可を求める通信の後にショックとなり、そして患者の心臓は止まったと言うことだ。
 救命士が行ったAEDによる1回目の蘇生は不応。
 効果が得られなかった。
 胸骨圧迫とバッグマスクによる人工呼吸による心肺蘇生法のさなか、患者は運び込まれてきた。
 院外での心停止。
 AEDの不応。
 いよいよ状況は厳しい。
「まだ心肺停止から2分だ。ギリギリ可能性は残されてる。
 AEDじゃ感知できない心室細動  fineVFが隠れている可能性も無い訳じゃない。それなら高い確率で蘇生できるんだ、諦めるな」
 七海の口から出た言葉は、スタッフに対する激励というより、自分自身への暗示だった。
 薄暗い予感を振り払うように、自らを叱咤する。
 予感など、何ら裏付けの無い自分自身の弱気の産物。
 七海は大きく深呼吸して、眼前のスタッフに発動の合図を出した。
「研修医、人工呼吸器で酸素投与開始。その後輸液ルートの確保が出来たらとりあえずエピネフリン1mg。その後ラクテックで体内にフラッシュしろよ」
 より効果を早めるため、ラクテックのような電解水、あるいは生理食塩水で薬剤を後押しする。
 七海が指示を出すと同時に、遠藤は行動に移った。
 遠藤にはなるべく多くの経験をさせなければならないため、彼だけは役割を固定させていない。
 その為、彼に対してはいちいち指示を振る必要があった。
 まだ少々迅速さに欠けるが、彼は丁寧に処置を行ってくれるので、実は針が逸れて薬液が体内に入ってなかったというようなうっかりミスは少ない。
 もちろん、彼以外は熟練したスタッフばかりだ。
 よほどの事が無ければ、間違いは起こらない。
「七海ちゃん、今救急隊の人から搬送中の心電図のデータ貰ったんだけど、これ、心筋梗塞の波形じゃないよ」
 小沢がプリントアウトされた心電図を指し示した。
 たしかにそれは、ST上昇のような、心筋梗塞の特徴的な波形を示してはいなかった。
 それに関しては救急隊員も首を捻っていたが、何せ田舎なものだから、救急要請から患者宅に到着するまでに15分ほど掛かっている、と言った。
 なるほど、それでは救急隊の到着前に発作が収まった可能性もある。
 しかし、七海は今表れている症状から別の可能性を考えていた。
「胸部外傷  
 七海がそう言うと、小沢も同意して頷いた。
「至急、FASTとります。研修医、輸液ライン確保したらポータブル持って来い」
「はい! ポータブルX線ですね。  あの…FASTって何ですか?」
 携行用のレントゲンを取りに行こうとした瞬間、彼が質問を放った。
「そうか、救急以外じゃあまり使わない言葉かもな。エコーを使って、腹腔内、胸腔内、心嚢内の出血を調べるんだ。 今みたいに外傷が疑われる時は、X線と組み合わせて使えばかなり有効なんだ。  つか、早く行け!」
「は、はい!! すみません!」
 遠藤の動きを確認した後、七海は心エコーを撮りにかかった。
 エコーは、レントゲンの様に身体を透過して撮影するものではなく、身体の中に音波を飛ばし、それが跳ね返ってくる距離を測定して身体内の映像を描き出す機械だ。
 実は、心臓の場合、心電図でモニタリングするよりも、慣れてしまうとエコーの方が正確な情報を得られる事が多い。
(ああ…)
 エコーの造影を確認した瞬間、今までは辛うじて灰色だったリスクが、真っ黒に変わった。
 心臓は僅かな電気信号を残して、その果たすべき機能が止まっていた。
 幾つかある心停止の中で、無脈性電気活動  PEAと呼ばれるものである。
 心臓は血液を送り出す為に電気を発生させているが、心拍が得られない、という症状だ。
 心室細動や心室頻拍と異なり、この場合一度心臓の動きを止めてしまう除細動器  カウンターショックは使えない。
 薬剤投与と、胸を切り開いて手で直接心臓に刺激を与える開胸心臓マッサージくらいしか有効な手段が思いつかない。
 しかし、今回はそこに至る以前の問題を抱えている。
 エコーの造影は、明らかに心嚢内の貯血を示していた。
 心膜が損傷した為に、心臓を包む心嚢内に血液が貯留している状態  心タンポナーデだ。
(それに、X線撮らないとはっきりしないけど、やっぱりこれは…)
 やはり肺の形状がおかしい。
 それは、先程の救急隊の話を聞いたときから考えていたもう一つの可能性を示唆していた。
「CPR、胸骨圧迫のみに切り替えて! 緊張性気胸かもしれない!」
 心肺蘇生を行っている看護師に、人工呼吸を行わないように指示を出す。
 七海の読影通り緊張性気胸だったとしたら、人工呼吸は致命傷になりかねないのだ。
 緊張性気胸は平たく言えば肺に穴が空いている、という病態だ。
 穴の空いた肺にどんどん空気を送り込んだら、当然肺の外  即ち胸腔内に空気が洩れ続ける事になる。
 そうなれば、送り込んだ空気が今度は外側から肺を押し潰してしまう。
 本当に緊張性気胸ならば、一刻も早く胸腔内の空気を抜かなければならない。
「救急隊員、患者の主訴は胸痛、狭心症の発作だということでしたが、その時の詳しい状況は!?」
 先に聞いていた症状と、現実に患者の中で起こっているものが全く別のものだ。
「いえ、それがご家族も動転されていて…ただ、ここ最近何度も狭心症らしき発作を起こしていると聞きましたので  
 やや困惑した様子で彼は答えた。
 どうやら隊員も詳細は把握できないでいるようだ。
「七海ちゃん、どうだ?」
 小沢がモニタを覗き込む。
「胸部大動脈損傷、腹腔内出血は共にマイナスですが、胸腔内出血がおそらくプラス、心タンポは完全にプラス  
 七海はエコーの結果を読み上げた。
「どれどれ…ああ、かなり出血が進んでるな。心停止の原因は心タンポか…」
 小沢が重苦しい声で呟いた。
 その瞬間、遠藤がポータブルX線を持って戻ってきた。
「お待たせしましたっ!」
「胸部だけでいい、すぐ撮れ。とりあえずこっちは心嚢ドレナージから始める」
 七海は慎重に心嚢穿刺を始めた。
 穿刺すべきは心膜と心臓の間。
 間違っても心筋を傷つけてはいけない。
 その作業の間も、頭の中では次のクリティカルの映像が流れ始めていた。
 FAST開始から、X線撮影完了までにかかった時間は1分半。
 緊張性気胸でないとすれば、一刻も早く人工呼吸を再開しなければならない。
 しかし、結果は、やはり緊張性気胸だった。
「これは、多発外傷…事故です。心筋梗塞の発作じゃない」
 いや、この段階では心筋梗塞そのものを否定するだけの材料は無い。
 発作が先か、外傷が誘発した発作か、それは何とも言えない。
 分かっているのは、おそらく転倒したか何かで胸を強く打ったのだろうということだけだ。
 そして、その時に折れた肋骨が、肺や心筋を傷つけてしまった。
 もともと狭心症発作の既往歴があるところから、心筋や心膜が脆くなっていたのかも知れない。
 肺に空いた穴から洩れ出た空気が肺や心臓を圧迫する緊張性気胸。
 同じように傷ついた心筋から洩れた血液が心臓とそれを包む心嚢の間に溜まり、心臓を圧迫する心タンポナーデ。
 確かに、患者の訴えどおり胸痛は胸痛だが、それは疾病ではなく外傷だったのだ。
 どちらも、初期に正しく対応していれば救命できる種類のもので、また処置もそれほど難しい訳ではない。
(最初の病院が適切に処置していれば、十分間に合ったのに  
 ERの様な高度救命救急施設でなくとも、通常の病院で十分受け入れる事が可能な患者だったはずだ。
 それが、"長時間持続する痛み"という患者の主訴と、"心筋梗塞"という家族の言葉を鵜呑みにしてしまった為に、循環器の専門医でなければ対応できない様な、重篤な合併症を連想させてしまった。
 結果、単なる外傷患者を手遅れにしてしまったのだ。
(あと30分でも早く到着してくれれば…いや、せめて心停止する前だったら  
 七海は台に置いた左の拳を固く握りしめた。
「あんたら、搬送しながら付き添いの家族に確認しなかったの」
 小沢が隊員に非難がましい視線を送った。
 彼は茫然としていた。
 彼らは彼らで、受け入れ先が決まらず焦っていたのだろう。
 責めてはいけない。
 診もしないで、闇雲に受け入れを拒否した各病院の医療従事者にまず問題がある。
(出血量から見て、30分以上経過してる…)
 絶望、という二文字が退け難い重さで七海にのしかかった。
 心タンポナーデの救命可能域は、発症から30分以内が限界と言われている。
 初期なら、針で心臓に穴を開けてそこから貯留している血液を吸い出すだけで簡単に助けられたが、この患者はもう人の手の届かない場所へ連れ去られた後だ。
「常盤木先生、何か…何か出来ないんでしょうか。やっと、ここにたどり着いたのに、俺たちは何も出来ないんでしょうか」
 遠藤が、縋る様な目で七海の顔を見た。
 彼は、自分自身が思いも寄らないような奇跡を七海が繰り出してくれるのを、期待している。
 まだ、希望があると、心のどこかで信じている。
 しかし、七海にはそれに応える術は何も無かった。
(開胸するか、それとも…?)
 薬剤投与は効果無し。
 肺穿刺で、胸腔に洩れ出た空気は抜いた。
 心嚢内に溜まった血液も吸い出した。
 出血部位の止血は既に完了している。
 その上で、薬剤と共に血圧を上げるための輸液を持続的に行っているが心拍は戻らない。
「これ以上は輸液じゃどうもならんよ」
 小沢が首を横に振った。
 七海が出来得る限りの処置は、もう全て出尽くしてしまった。
 これ以上、何も持っていなかった。


前頁ヘ戻ル before /  next 次頁へ進ム

+++ 目 次 +++

PAGE TOP▲