scene.13 路傍の小石
途中、コンビニで食糧とアルコールを仕入れ、七海は遠藤を自室に連れて帰った。
七海の部屋は、病院から徒歩5分のところにあった。
いつでもスクランブルに対応できる立地だ。
元々は、七海の母親の従兄であり、ER室長の渡辺恭介の所有物である。
恭介が結婚し、一戸建を購入したので、ちょうど空き部屋になっていたのを七海が借りることになった。
中学校から世話になり続けた渡辺家から独立する際に、大叔父…大叔母から出された条件が、この部屋に住むことだったからだ。
彼らにとって、息子より遥かに年少の七海はもはや孫のようなものらしく、母親よりよほど過保護だった。
この部屋も、恭介が貸してくれたと言うよりは、強引に大叔父が恭介に貸し出させたと言う雰囲気だ。
思うに、七海が入居することにならなければ、とっくに売り払っていたのではないだろうか。
「適当に座って」
借りてきた猫のように神妙な顔になっている遠藤を、七海は部屋の奥へ通した。
そう言えば、恭介を除いた職場の人間を部屋に招き入れるのは初めてだ。
「 お邪魔します」
遠藤はリビングの、向かってやや右奥 いつも七海が寝ているマットレスを背に、腰を下した。
この部屋は、七海が入ると決まる前に恭介が出て行ったため、当時使われていた家財道具のほとんどが処分されていた。
入居する際に買い足せば良かったのだが、どうせ医局に泊まり込んでいる日の方が遥かに多い生活だ。
それならば、わざわざ購入する必要も無いか、と結論付けた。
飾るためだけに買うようなものだからだ。
しかし、本来あって普通のものが欠けた室内は、どこか殺風景でだだっ広い。
それが今は落ち着いた空間になっている。
寛いでいるとは言い難いが、それなりに部屋の中で収まりの付いている遠藤に目を遣った。
人一人置いただけで随分しっくりくるものだ。
いつもは殺伐としている室内が、妙に和んでいる。
一応コンビニで食糧は仕入れたが、他に何かつまめそうなものはないかと、冷蔵庫を物色しに七海はキッチンに向かった。
酒のあてを手に、七海がリビングに戻ると、遠藤がいつの間にか正座している。
「何かしこまってんだ。足崩せば?」
「でも、やっぱり、その 」
上司の家で寛げと言われても、なかなか難しいようだ。
「あっと言う間に痺れが切れるぞ」
そう言って七海は、マットと背の間に足を伸ばし、僅かに覗いている足の裏を軽く踏んでやった。
「いたたたた! 止めてください、本当はもう痺れてるんです!」
見事に遠藤の姿勢は崩れた。
「そうそう。そうやって崩れてな。休み時間なんだから」
「はあ…」
まだ戸惑っている様子で、彼は生返事をこぼした。
戸惑った顔をしながらも、素直に足は胡座の形に組み直している。
その向かい側に七海も腰を下した。
「とりあえず、飲んで食べて風呂入って、寝よう。お互い疲れてるんだから。討論も愚痴も、その後にしよう。どうせ明日は休みだし」
コンビニの白いビニール袋から、まずはアルコールの缶を取り出した。
食べ物も買ってはいるが、本当は食欲などほとんど無い。
当直明けは大体そんな感じだった。
せっかくつまみも並べてみたが、遠藤もあまり飲食に積極的にはなれない様子だ。
「おつかれ」
グラスに注がない、缶のままのビールを軽くかざす。
「…さまっす」
無気力な声で遠藤が応えた。
普段はどちらかというと喋る方の彼が、今日は無口だ。
話し足りないことがあるとして、それを口に出すのは容易ではないらしい。
人間、心底落ち込んだ時ほど上手く言葉が出てこない。
口から出した途端、自分自身が崩れそうな気がするからだ。
しばらく、無言のまま二人は、食事には手を付けず酒ばかり呷っていた。
余程疲れていたのか、遠藤はあっという間に酔いが回ったようだ。
ますます虚ろな目で空を見つめている。
「お前さ、何で医者になろうと思ったの?」
長い沈黙の果て、その時先に口を開いたのは七海の方だった。
「志望理由…ですか?」
「別に、それを訊いて何って事も無いんだけど」
七海など、正直なりたくてなった訳でもない。
だから人に志望理由で難癖をつける気も無い。
「理由…」
彼は俯いてしばらく考え込んでいた。
やがて顔を上げると、ぽつぽつ話し始めた。
「俺んち、下町で小さな診療所やってるんですけど 」
それは、七海も資料に目を通した時に気付いていた。
遠藤の実家は小児科の診療所だ。
「うちの父親ってのが昔堅気っていうか、夜中でも患者が飛び込んできたら、医院開けるんですよね。病人なんて夜中に悪くなるもんだ、とか言って。まぁ、寝巻姿ですっ飛んでいくんで、みっともないことこの上ないんですけど…」
それでも門前払いにしたことは一度も無いのだ、と少し誇らしげに言葉を続けた。
「 良いお医者さんだな」
今時はもうほとんどいなくなってしまった、昔ながらの町医者。
先端医療とは無縁だろうが、日常的に一番必要なものだ。
「でもね、小さな開業医じゃ出来る事はたかがしれていて…本当に重症の人が来ても、救急車呼ぶくらいしかできないんすよ。
出来るだけ受け入れてくれそうな病院に連絡するのが精いっぱいです」
設備も無く、夜間はスタッフもいない小さな診療所。
その状況は、七海にも容易に想像がついた。
「本当に苦しんでいる人は目の前を通り過ぎていくだけで、何も出来無い。
それが嫌で、俺は目の前の患者を素通りさせない医師になりたいと思ったし、その為にはつまるところ執刀できるようにならなければいけない、と思いました。
だけど…」
途切れてしまった。
途方に暮れた声。
どうして、こんなことが起こってしまうんだろう?
答えの無い問いが、堂々巡りする。
埋まらない喪失感。
遣り場の無い憤り。
自分自身への失望。
いっそ小さな子供みたいに、大声で泣き喚けば少しは楽になるだろうに、それも出来ない。
その傷は、七海のものと同じものだ。
あの時、七海は泣けなかったし、怒る事も出来なかった。
心の奥底でくすぶる火種を抱えたまま、今日まで来てしまった。
目の前で嘆き、怒り、悩み、落ち込んでいる その姿は、遠い昔に仕舞込んだ、柔らかく剥き出しの記憶を呼び覚ました。
この時、七海には、まるで彼が自分の代わりに泣いてくれているような気がした。