
scene.5
北尾の言葉に、千里はすぐ応えられなかった。
(…ホントにね。ホントに解決して欲しいよ)
心の底から、そう思っていたから。
あんな風に人を想える事が、無意味だなんて思いたくなかったから。
「…みんな、自分がここにいる意味を知りたいんだよね」
小さく膝を抱えて、千里は呟いた。
「自分の存在する価値が欲しいんだ」
それを、忍が千里に与えてくれた。
けれどその忍を、千里が救う事は出来ない。
それは千里の役ではない。
別れ際の、忍の消えて無くなりそうな微笑を思い出す。
千里は、演奏家としての価値を自分自身に求めていた。
北尾は、身近な者に必要とされる事で己の価値を見出していた。
けれど忍は、自分自身の存在する意味を見つけられないでいる。
だけど本当は…。
本当は、それはもうとうに彼の掌に握られているのではないだろうか。
その事に気付く事が出来ないでいるだけで
「何だか今回とんでもない騒ぎだったけど、千里には必要な時間だったのかもな」
ぼんやりしている千里の耳に、北尾の声が突然飛び込んできた。
「え?」
「いや、千里見てるとそう思ったんだけど…。お前随分スッキリした顔してるし」
本当に嬉しそうに、北尾がそう言った。
「そう?」
答えながら、千里は北尾の存在の有難味を思う。
「ああ。俺には難しい事は分からないけど、自分なりにその価値とやらを見つける事が出来たんだろ?」
「ん、まぁ…うん」
「振り回された身としては心中複雑だけども、それで千里が自分の考えを整理する時間が持てたんなら、結果的に良かったのかなと思って」
北尾が微笑んでいる。
自分の事の様に、いつも思ってくれる。
自分の事の様に考えて、苦しんで、泣いて、喜んでくれる。
なんて得難い人なのだろう。
「んー、確かに、ちょっと一人で考える時間は欲しかったけどね。何ていうか、気持ちが追いつかないうちに先へ先へ身体ばっかり引っ張られてる感じで、疲れてたし。うん、いい時間もらったかな」
思わず泣きたくなる様な感謝の気持ちが込み上げるけれど、そういう言葉はなかなか口には出せない。
声に出してしまうと、急に薄っぺらくなってしまう そんな風に思うから。
だから、何でもない様に普通に会話を続けた。
「そうか…そうだよな。みんな、千里はこのまま音大行って、留学でもして、演奏家になって て勝手に思い込んでるけど、千里が決めた事じゃないんだよなぁ…。ごめん、ヘンなプレッシャーかけて」
そんな千里の心中には全く気付かず、またまた北尾が萎れた。
「いいよ! もういいってば! 先生達とか叔母さんは確かにそうなんだけど 北尾さんにはオレが甘えてただけなんだから!」
いつも真剣に見ていてくれるので、決して見捨てようとしないので、つい周囲に対する憤懣をぶつけてしまったいただけなのだから。
「ホントだよ?」
俯いた北尾の前髪を引っ張る。
「いててっ! ハゲる!」
千里の知る限り、彼の血統にそんな要素は無いのだが。
「いつまでも俯いてると横も引っ張ってやるー」
「わかったって! わかったからもう!」
耳の横の髪の毛を掴まれ、北尾は降参のポーズを取った。
「まいったか」
千里は、長らく失っていた自分自身の均衡が取り戻されているのを実感した。
忍が物事の本質をを見抜く力を持つのに対し、千里は本来物事を俯瞰して見る力を持っている。
全体を見渡して、自分の立つ位置を見極める。
いつの間にか失ってしまっていたそれを、千里はこの一週間の間に取り戻していた。
「 何か随分ご機嫌じゃんか?」
北尾が苦笑する。
「えへへへへ。ちょっとね、楽しかったって言うか
あ、そうだ! 新学期始まったらさ、忍も誘って三人でどっか遊びに行こうよ!」
千里は自分で言いながら、その言葉に違和感を憶えた。
何だろう?
胸の底で身を潜めるようにして蠢く、焦燥感に似た何か。
「ああ、いいかもな。何なら町田も呼ぶか?」
当然、千里の抱いた違和感に北尾が気付く訳も無く、彼は暢気な相槌を打った。
「え? うん! じゃあ四人で!」
多分、気の所為だ 千里は、心中に滑り込んだ異物を払い落とした。
三学期にはまた学校で会える。
別れ際、再会の約束に応えなかった彼。
千里の声が聞こえなかったのだろうか?
それとも…。
「お。 千里、見てみろよ」
北尾が突然発した少々間の抜けた声に、千里の思考は断ち切られた。
「え? 何を??」
北尾は千里の肩越しに窓を指差していた。
「ほら。月が丁度中空に昇りきったところだ」
千里は身体を捩り、背後の窓に目を向けた。
成程、見事な三日月だ。
空気が澄んでいるのか、今夜の月は凍る様に青白い。