scene.3

 二階に戻ると忍はまだ眠っていた。
 微かに寝息が聞こえる。
 電気は点けないでおいた。
 寝台の足許に腰を下ろし、溜息を吐いた。

  北尾さんにはカンケーないでしょ!?  

 心臓が大きく跳ねた。
 暗がりの中で突然蘇る、あの場面。
 全てを遮断した千里の一言。
(そうだよな…。関係ないと言われれば、そうなんだよな)
 しかし、そもそもの原因は自分にある訳で、『関係ない』と言い切るのも、違うのではないか。
 千里がヴァイオリンを止めようとしているのは、自分に責任があると北尾は考えていた。
 しかし、千里はそれさえ一切認めようとしなかった。
 責任を果たす事さえ、認めてくれない。
 最近は、千里と顔を合わせるとそんな事で口論ばかりしていた。
 挙句には行方不明だ。
 千里の家族は皆、誘拐だとか、何か事件に巻き込まれたのではないか、とか  家出以外の原因を信じている。
 しかし北尾は、彼の失踪が家出の様に思えてならなかった。
 自分がそこまで追い詰めたのではないか、と思っていた。
 あの日以来、その事ばかり自問し続けていた。
(どうしてこういう風にしかできないんだろう)
 お節介が過ぎる、と自覚している。
 それなら、どうして触れないでいてやる事が出来なかったのだろう。
 月光だけの暗い部屋で、北尾は同じ場所をずっと堂々巡りしていた。
 そうして、どれ程の時間が過ぎたのだろうか。
 不意に布の擦れる音が聞こえた。
 窓際のベッドで、不安定な動きでシルエットが揺れる。
「ここ…?」
 忍が上体を起こし、頼りない声を出した。
 まだ酔いが醒めきらないらしく、苦し気に両手で顔を覆っている。
「目、覚めた? ここ俺の家だよ」
 彼の時間はあの居酒屋のまま止まっているらしい。
 自分が何処に居るのか、何故いるのか、全く把握出来ないでいる。
「ちょっと待ってな。水汲んできてやるから」
 そう言って北尾は台所まで水を汲みに下りた。
 母親は相変わらず居間でテレビを見ている。
 部屋の外に、深夜番組の意味のない笑い声が洩れていた。
 自分の分と忍の分、二つグラスを用意して母親には声を掛けずに部屋へ戻った。
「お待たせ。とりあえず水飲んだほうがいい。血中のアルコール濃度下げなきゃ」
 氷水の入ったグラスを差し出した。
「…すみません」
 忍はグラスを受け取り、それを一気に飲み干した。
 思ったより喉が渇いている様だ。
 そして一息吐くと、何とも気まずそうな表情で俯いてしまった。
 酔い潰れたのを気にしているらしい。
「よくあるっちゃよくあることだから、そんなにしょげなくてもいいけど、気をつけないと命に関わることもあるんだからな」
 北尾は、忍の頭を撫でた。
 触ると嫌がっていた忍が、この時ばかりは大人しかった。
 叱られた後の猫の様に、小さくなっている。
「ま、何とも無くて良かった」
 北尾が立ち上がろうとすると、袖を捉まれ引き止められた。
「何? 気分、悪いか?」
 途方に暮れた頼りない目が、北尾を見上げていた。
「本当にすみませんでした。迷惑かけてしまって」
 こんな殊勝な顔をされると、いつもよりあどけない顔に見える。
 宴席からずっと感じていたのだが、無理して背伸びをしているだけで、意外と彼は幼いのではないだろうか。
「いいって、いいって。あいつらが悪いんだよ。ペース考えないで、次から次から勧めるから…。こっちこそ悪かったな、無茶させて  
 その為に隣に座らせたのに、結果的には何の防波堤にもならなかった。
 北尾は、むしろ情けないのは自分の方だと思っていた。
 予測よりかなり早かったが、この状態は町田が忍を誘った時点で充分に想像できていた場面だ。
 それだけではなく、思えばこの後輩には随分迷惑を掛けているのだ。
 初対面の時から、彼に対していつも強引に振舞ってきた事を、今更に自覚する。
 彼にしてみれば、北尾と千里の間の不協和音など知りもしないだろうし、また、関係の無い事なのだ。
 逆に知っていたからと言って、彼に答える義務は無い。
 面倒だから関わりたくないと言われても、それは相手を責めるべきではないのだ。
「…悪かったな、本当に」
 しばらくの沈黙の後、ぽつりと北尾は呟いた。
 ほんの三、四日前に初めて会った日の事を思い出していた。
「いえ、今日は、自分でちゃんとセーブできなかったのが悪いですから」
 北尾の謝罪を、忍は今日の飲み会の事と取った様だ。
「ああ…そうじゃなくて、千里のことでお前に随分嫌な物言いしたなと思って」
 千里の名前を出されて、忍の顔があからさまに強張った。
「いや、ごめん。別に詰問する様なこと、言うつもりはないんだ」
 北尾は力無く笑った。
「何て言うかな…。俺は、良かれと思ってやったことが裏目に出るんだ。東条が、もし千里のことで何か知っていて、俺に言えないことなら  それは俺が口を挟んじゃいけないことなんだ。  多分、そうなんだ…」
 いつの間にか、北尾の中で千里の失踪は家出なのだという想像が確信に変わっていた。
 自分と口論になった事が原因で、彼は姿を消した。
 いつの間にか、北尾はそれを確定的に考えるようになっていた。
 千里の失踪は、自分のせいだと思い込んでしまっていた。


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