
scene.4
自宅の最寄駅からS駅までは、途中乗り換え有りで約二十分。そんなに遠くない。
志月は、改札の前にいた。
「遅かったな」
暇潰しに読んでいたらしい本を鞄にしまいながら、志月が言った。
「ごめんなさい」
言われた瞬間、忍は反射的に謝っていた。
なるべく急いだつもりだったが、予想以上に待たせていたのだろうか。
「いや、学校が終わるのが遅かったな、と思ったんだ。何回か電話を入れたんだが、中々繋がらなかった」
そんなに何度も電話が掛かってきていたなど、全く気付かなかった。
それどころか、忍が帰宅したときには、既に彼はいなかったのだ。
その事にさえ気付いていなかった。
午後からずっと家にいたとは、今更さすがに言い出しにくい。
「ごめんなさい」
もう一度謝った。今度は、電話に気付かなかった事を申し訳なく思っての謝罪だった。
「いや、構わないさ。 それにしても、随分薄着で出てきたものだな」
志月が、忍の服装を見て呆れている。
忍は改めて自分の服装を確認した。
Gパンに薄手のパーカー一枚。
上に羽織るべきジャケットを忘れてきたようだ。
十二月には少し寒々しい格好だった。
「寒いの平気だから、つい…」
寒さに強いのは本当だが、それ以上に慌てていたのだ。
志月は忍とは反対に、あまり寒さが得意ではないらしい。
しっかり長いコートを着込んだ上にマフラーまで捲いている。
「見てるこっちが寒い。
まあ、まだ食事には早いし、ついでだから服でも買いに行くか」
そう言った途端、忍の返事を待たずに志月が歩き始めた。
(珍しいな、一緒に出掛けるの)
彼の後を追いながら、忍はぼんやりとそう思った。
小学校以来かもしれない。あまり、二人で何処かに出掛けた記憶は無い。
忍より十センチ近くも長身の志月は、歩くのが早い。
忍が彼を追うと、少しいつも早足になる。
そして、ふと歩幅の差を思い出した志月が、立ち止まって忍を振り返る。
二人並んでまた歩き出す。
そんな事を何回か繰り返しながら、夕暮れの繁華街を歩いた。
(いつか このまま 振り返らずに歩いていく日が、来るのかな)
広い背中を眺めながら、忍は埒も無い事を考えていた。
仮定の話は、無意味だ。そんな事は分かっているのに。
「着いたぞ」
志月が一軒の洋装店の前で足を止めた。
駅を出て十分程の距離だった。
英国風の外装。飾り窓に並ぶマネキンの隙間から、店内の様子が垣間見える。
濃い赤の絨毯と、シンプルなスーツに身を包んだ従業員が目に入った。
中に入ると、何処かの執事の様な風情の年配の紳士が出迎えた。
志月と彼の遣り取りを聞いていると、どうやらいつもこの店で服を買っているらしい事が分かった。
「今日は採寸してもらって それから上下で三着ずつとコートを一着。
斉木さんにお任せしますので、適当に見繕って下さい」
「かしこまりました」
斉木と呼ばれた老紳士は、志月にお辞儀をすると、若い女性従業員を呼んだ。
「採寸して差し上げてください」
「はい、かしこまりました。こちらへどうぞ」
彼女に手招かれ、カーテンで仕切られた三畳程の部屋に案内された。
「そのままで結構ですので 」
まっすぐ立つように指示をして、服の上から忍の身体にメジャーを巻き始めた。
(高そうな店…)
控えめだが上質の素材が使われている店内の装飾品。
扱っている商品も、半分以上が一点もの。というより、仕立て屋に分類するのが正しいのかもしれない。
カウンターの奥には様々な種類の服地が整然と陳列されている。
一通り採寸を終えて部屋を出ると、志月はカウンターの横に置かれた椅子に腰掛け、紅茶を振舞われていた。
その姿はとても自然で、店の空気に馴染んでいた。
相当長い付き合いなのだろう。
一体、彼は何者なのだろうか。
古風で正統派な店構え。
その空気を作り出している従業員。
そのどちらも、二十代の男性が個人的に馴染みにするには些か不似合いな様に感じた。
経済的に余裕のある生活なのは分かっていたが、それならそれで、もっと流行を追っていても良い様な年齢だ。
「 それでは、こちらのサイズでスーツを二着でございますね」
斉木が、志月に注文表に署名を求めた。
「それで、お願いします。仕上がりはいつくらいになりますか?」
署名した注文表にカードを添えて返した。
「そうですね、二週間程いただければ…。ご自宅にお届けでよろしいですか?」
「桜川の方で頼みます」
桜川町は、今、忍も住んでいるあの屋敷のある所だが、彼は他にも家があるらしい。
そんな事も、忍は知らなかった。
「桜川のお屋敷でございますね。かしこまりました。ご実家の方へはあまりお戻りなられていないのですか? 奥様がこぼしておられましたよ」
「まあ、兄夫婦が同居してるんですから、それなりの距離感で良いんですよ。俺が下手にうろうろしてたら、揉め事の元ですからね。 あ、そうだ、コートはそのまま着て帰りますので、後はスーツと一緒に自宅へお願いします」
「はい。 美木さん、お客様にコートを」
採寸の担当した人 美木と呼ばれた女性が、忍にコートを羽織らせた。
「お似合いですわ」
これも、ごくスタンダードなデザイン。
それは、白いダブルのハーフコート。
「じゃあ、行くか。斉木さん、また来ます」
「はい、お待ち申し上げております」
にっこり笑って、斉木はお辞儀をした。
「ありがとうございました」
従業員の声に送り出され、洋装店『ロイズ』を離れた。
街はもうクリスマス一色で、華々しいイルミネーションとクリスマスキャロルに彩られていた。
まるで違う街の様になっていた。
「あの店で、いつも服買ってるんだ?」
大きな看板は提げず、お得意様だけに商いをしている様な店。
「ああ、まあ、大概はな。あそこは、祖父母の代より前からのつきあいだし、斉木さんがよく解ってるから、面倒がなくて良いんだ」
「ふうん」
家族馴染み。
会話から、何となくそんな内容が伝わってきた。
同じ家で過ごしながら、忍は志月の事をほとんど知らない。
それどころか、自分自身の正体さえ知らない。
その事をあまり気にした事は無かったのに、最近になって何故か無性に気になり始めていた。
「そう言えば、おまえは嫌いだったっけな。こういうの」
沈黙を切った志月が、突拍子も無い言葉を繋いだ。
「えっ?」
忍には、そんな事を言った憶えが無かった。
「ほら、大仰だ、って怒ってたじゃないか。服なんて着れればいいんだ、とか言って」
志月の記憶の中には具体的な場面が思い浮かんでいる様だ。
(ああ )
忍は、志月に気付かれない程度の小さな溜息を洩らした。
(また、だ )
自分の記憶に無い事を、唐突に言われる。
こんな事は珍しくなかった。
彼の中で、忍は時々誰かの影と『混じって』しまうらしい。
過去に忍ではない誰かと過ごした場面が、彼の記憶の中で混ざり合ってしまうのだ。
それらは明らかに現実の出来事と符号しないのに、彼はその事に一切疑問を感じない。
(一体、誰と間違えてるんだろう?)
そう考えた瞬間、こめかみにちく、と痛みが走った。
今までまるで気にしていなかった事が、今更気になって仕方無い。
それなのに、その事を考えると、何者かが制止するかの様に頭痛が起こる。
(何なんだろう この頭痛…)
その痛みに、いつも忍の思考は寸断される。
それが自らの心の防衛本能によるものだと、未だ忍は気付いていなかった。
心を守る為に無意識に出来る防波堤なのだと、気付いていなかった。