scene.5

 頭の天辺から、冷たいものが降りてくる。
「逆恨みヨ  シンは、逆恨みで売られタ」
 アルベルトの声は、とても口惜しそうで、苦しそうで、苦悶に満ちていた。
 彼にとっては被害者だけではなく、加害者までもが友人だったのだ。
 志月にとって、犯人は本当に赤の他人で  
 けれども、その犯行に到る過程は、決して無関係ではなく。
「それだけじゃナイネ。…アナタの家、身代金払わなかっタ」
 アルベルトが大きく溜息を吐いた。
「な…!?」
 志月は驚きのあまり、頭の中が一瞬真っ白になった。
「ヤッパリ、知らなかっタネ? ルーク、オトーサンのハライセにシンのコト、ゲリラに売った。日本の大きな会社のオーナーの息子と結婚スル。だから、その会社から身代金取れル言っタ。ケド、アナタのオトーサンお金払う…拒否シタ…。
 デモ…安心したヨ。アナタが彼女見捨てタ…ソウジャなかっタ」
 アルベルトが、志月の手を強く握った。
「ケド、この事シンのオトーサン、知ってるネ。軍のヒト、連絡スル…言ってタヨ。
 だから、ワタシ迷ったネ。アナタと一緒の写真渡す? 渡さなイ?
 アナタに任せるヨ」
 アルベルトは再び溜息を吐いた。
 志月は、手渡された手帳を強く握り締めた。
 そんな遣り取りがあった事すら知らなかった。
 自分だけが何も知らなかった。
 知らされていなかった。
 しかし、そう言われてみると、確かに思い当たる事があるのだ。
 去年、忍を引き取りたい、という話をした時、兄はやけにすんなり協力した。
(それは、まさか…この事を知っていたから  なのか…?)
 指先が冷たくなる。
 全身から血の気が引いていくのを感じる。
  ワタシ、もう行くヨ。教授の出張…ワタシ助手。あまり時間ナイ。
 東条サン、今日、会えて良かっタ。
 いつか、ワタシの国…また来ル、その時ワタシのコト呼んで下サイ」
 寂しそうに手を振って、アルベルトは店を出て行った。
 しかし、志月にはその後姿はもう見えていなかった。
 無意識に眼前のグラスを空けた。
 従業員がグラスを下げるついでに、追加オーダーを問う。
 適当な名前を答えたのかもしれない。
 何しろ、ここから先の記憶がひどく曖昧だった。

  あの日、会いに行かなければ、あんな事は起こらなかったのか。

 まさか、こんな形で彼女の死に自分が関わっているとは、志月には想像もつかなかった。
 今まで、あの事件は何処か遠い出来事  不幸な事故  無意識のうちに、そう思っていた。
 しかし、元々の原因を作ったのが自分自身だったなど、全く気付かなかった。
 確かに、実家の両親は、もともと歓迎していなかった。
(俺が、会いに行った為に  殺された)
 彼女は、見殺しにされたのだ。
 しかも、志月には何も知らされないまま。
(俺の所為で、殺された)
 唯一、味方だと思っていた兄すら、何も話してくれなかった。
 父や母と一緒に、彼女を見捨てた。
 全てのものに裏切られた様な、激しい喪失感に襲われる。
(…俺が、彼女を殺した)
 あの日、会いに行かなければ。
 それを思うと、誰より許せないのは自分自身だった。
( 俺が 彼女 を 殺し た )
 テーブルに伏したままの志月の横に、どうやらオーダーしたらしいカクテルが置かれる。
 グラスからは、甘い花の匂いがした。
 痺れたままの脳が、記憶の中から同じ匂いを引き摺りだす。
 それは、彼女と会った最後の夜の記憶だった。
 彼女の小さな部屋の中に立ち込めた、花のお茶の匂い。
 志月は、無意識に伸ばした手で、グラスを派手に倒してしまった。
 零れたカクテルで、袖口が少し濡れた。
 それが、微かに残る最後の記憶だった。


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