scene.3

 ゆき、と長い時間呼ばれてきた少年に、忍という名を付けたのは思い付きだった。
 後から思えば、その思い付きそのものが無意識が発した警告音  だったのかも知れない。
 その日から、二人の奇妙な同居生活が始まった。
 志月が最初に立てた目標は、学校に通った事の無い忍を学校に通えるレベルに持っていく事だった。
 家庭教師は特に雇わず、志月自身が教える事にした。
 いざ始めると、彼は思いの外飲み込みの良い生徒で、半年もすればほぼ学年に追いつくだけの学力を身につけた。
 どうやら、簡単な読み書きや計算などは、置屋にいた頃から誰かが教えていた様だ。
 こうなると、どちらかと言うと問題は、学力面より、体力や情緒の方だった。
 忍は、極端に口数の少ない子供だ。
 自分から話しかけてくることはほとんど無く、自分からほとんど身体を動かす事も無い。
 黙って見ていると、一日、自室の部屋の隅に座ったまま過ごしていた。
 それでも、志月が話し掛けると少しはにかんだ顔で応えてはくれたのだが。
 家の中に二人だけで過ごしている分には、それで何の問題も無い。
 しかし、そのままでは普通に生活出来ない。
 だから、時間のある時はなるべく外に連れ出した。
 そして、何度か共に外出しているうちに志月はある問題に気付いた。
 雑踏や騒音に晒されると、彼はある種のパニックに陥るのだ。
 そうなるとこちらの呼び掛けにはほとんど反応しなくなり、身体が固まって動けなくなる。
 触れた事の無い外の世界に対する恐怖感だろう、と志月は思った。
 それはまるで、雛のうちから鳥かごの中で育てられた、観賞用の小鳥の様だ。
 今思えば、置屋の前に座っていた忍が途方に暮れた様な顔をしていたのは、これが原因だったのだろう。
 それに気付いてからは、外出する回数と時間を減らし、繁華街などの騒がしい場所を避ける様に気を付ける様にした。
 無理なく彼が外の世界に馴染める様に、細心の注意を払った。
 そうして、更に半年程過ぎた頃には、彼も普通に学校へも通えるようになり、新しい生活にも、少しずつだが馴染んでいった。
 それはとても穏やかな時間で  決して失われたものと同じではないけれども、同じくらいの大きさで、徐々に志月の中の大きな空洞を埋めていった。
 そして、忍を迎えて一年と少し経過した頃、兄の籍から志月自身の戸籍に彼を移す日が来た。
 書類の上でも、やっと二人が家族になれた日だ。
 篠舞の事は一生傷んだままだろうけれど、それでもその日をけりとして、志月はやっとあの事件を過去へ送る事が出来た。
 後は、このまま平穏に彼が成長して、その顔で笑ってくれれば良い。
 生きて、笑っていてくれれば、それだけで良い。

 そう願った僅か半月後、珍しく二人の暮らす洋館に客が訪れた。
 その人物の登場によって、志月のささやかな願いとは異なる方向へ、全てが流れようとしていた。


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