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城聖学園中学校 千里は、この私立中学の音楽推薦枠にうっかり引っ掛かってしまった。
楽育研究所を開いている叔母の許でヴァイオリンを習い続けて約十年。
彼女の勧めで申し込んだ音楽推薦。
募集枠二名の難関に、まさにうっかり合格してしまったのだ。
受けた時は、まさか受かるなど考えてもいなかったし、両親にしてみても叔母の熱心さに気圧された、という感じだった。
だから千里も、『まあ、じゃあ受けるだけ受けてみればいいか』という程度の感覚で受験したのだ。
千里自身には、あまり具体的に音楽方面に進もうという展望は無かった。
学校も、こんな家から遠い男子校に通うつもりは無く、普通に地元の公立中学に進学するつもりでいた。
むしろ、もう中学生だしヴァイオリンもそろそろやめようかと考えてさえいたのだ。
「あーあ。落っこちたらおばさんも諦めると思ったのになあ…。大失敗だよ」
そんな溜息を吐いてから、もう一年が経った。
二年生の夏休み。
千里は音楽科の実技講習の為、夏休みに入っても毎日学校に通っている。
あまり学校が楽しいとは言えなかった。
音楽科の生徒は、一般受験組が九割以上。
推薦受験組が一割未満。
推薦合格者には、特別レッスンや授業料の一部免除などをはじめ、様々な特典がついていた。
また、後の高等部や大学への進学、更に海外コンテストへの優先的な推薦など、将来の展望も開きやすい。
それらの理由から、推薦組の生徒は常に羨望と嫉妬の眼差しに晒されている。
千里は、その中でも特に嫉妬とやっかみと僻みの視線を一手に引き受けていた。
何故かと言うと、そのやる気の無さが明らかに態度と顔に出ていたからだ。
人というものは、自分より一段上に立つ者が、まだ自分たち以上に努力し、みっともないまでに足掻いてくれていたならまだそれ程反感は抱かないのだ。
それが、千里の様に特別に誂えられた席に白けた顔で座り、「こんな椅子に座りたくないんだ」という態度でいられては、その選から漏れた者達の立つ瀬が無い。
二年生になった頃には、一層加熱してゆく受験熱にどうしても乗り切れない千里は、クラスからやや浮いた存在となっていた。
(つまんないの…。もっと、学校って楽しかった…。やっぱりオレ、こういうの向いてないや)
講習も終わり、無人になったレッスン室の窓から外を眺めていた。
レッスン室は二階なのだが、その窓からは洋弓部の活動がとてもよく見えた。
アーチェリーの的が窓から丁度正面に見えるのだ。
今日活動している部員はどうやら三~四人程。
部員は全部で十四~十五人くらいはいる様だが、大体いつも活動しているのは十人程だ。
今日はまた一段と少ない。
(だけど、みんな楽しそー…)
千里の様に不景気な顔をして出て来る者など一人もいない。
皆それぞれとても楽しんで活動している。
ぼんやりと彼らの活動を眺めていると、最上級生らしき部員が突然千里の立っている窓を見上げた。
そして大きな声で話しかけてきた。
「そんなとこで眺めてないで、ヒマなら降りて来いよー」
人の好さそうな笑顔だった。
千里はその上級生のその人懐っこい笑顔に釣られて、ついアーチェリー場まで降りていってしまった。
「よう、いらっしゃい」
躊躇いつつも中に入った千里の頭を、彼は軽く撫でた。
そして、手に持っていた弓を千里に手渡し、「打ってみる?」と言った。
「え!?」
音楽科の生徒は指を痛める運動は一切禁止になっている。
普通科の生徒もそれは知っているはずだ。
他の部員も彼の発言に驚いたのか、ざわついている。
「毎日見てただろ? 興味あるのかと思って」
「興味っていうか…。別に、ただ楽しそうだなって」
アーチェリーがではなく、部員たちの様子が、である。
「うん、楽しいぞ。打ってみな?」
にっこり笑って、彼は千里の背中から覆う様にして手を沿え、弓を構えさせた。
「左手は、甲まで一直線に 右腕は直角になる様に引いて…」
気付いたら、千里は矢を番えていた。
「 離す!」
瞬間、空気を切る音がした。
それとほぼ同時に、板を叩いた様な甲高く乾いた音が場内に響いた。
放たれた矢は、的の中心からやや右下に当たっていた。
見ていた他の部員たちが一斉に拍手する。
「やるじゃん、一応的に当たってる!」
その中の一人が、千里の背中を叩いた。
後ろを振り返ると、千里に矢を打たせた上級生が、親指を立てて笑っていた。
「気持ち良いだろ、当たると」
彼は、千里の頭をくしゃっと撫でた。
「うん!」
悔しいが、本当に気持ち良かった。
「こうやってみんな先輩にはめられちゃうんですよね」
二年生らしき部員が彼の脇腹を小突いた。
そして千里は、居合わせた部員たちと一緒にそのまま場内に設置されたベンチに座って雑談を始めた。
「俺は北尾。ここの部長なんだ。
で、この左のが同じ三年の町田。こっちが、二年の平池。 ずっと毎日見てたから気になってさ」
先刻、千里に矢を打たせてくれたのは洋弓部の部長だったらしい。
「水野千里、二年だよ。打たせてくれて、ありがと! ホントに気持ちよかった」
「気をつけな。こいつはね、人に打たせるのがやたら上手いんだよ。的に当たればこっちもいい気持ちになるだろ? そうやってみんな入部させられちまうんだ」
もう一人の三年生が、北尾にヘッドロックを掛けながら言った。
「町田、人の事を詐欺師みたいに言うな」
町田は「悪い悪い」と言いながら、ちっとも悪いと思っていない様子で笑った。
「でも本当の事じゃん、なあ? 平池」
町田は、隣に座っている平池に水を向けた。
「あはは。先輩、人に打たせるのだけは、マジ上手いですよねー」
人に打たせるのだけ、という行に強調点を付けて、平池が言った。
「そーだよな。人に打たせるのだけはな!」
さらに町田が念を押した。どうやら、この北尾という人は自分自身の成績の方は余り振るわないらしい。
(人に命中させる方が、よっぽど難しそうなのになぁ)
変なの、と千里は思った。
「お前ら、ちょっとは部長を敬え!」
その千里の横で部長こと北尾智史は、不遜な部員どもに拳骨を一発ずつ喰らわせた。
しかし、口では不平を鳴らしつつも心は裏腹にそのやりとりを楽しんでいる様だった。
音楽科の連中とは正反対だ。
連中は、口で相手を誉めそやしながら、いつ足元を掬ってやろうかとてぐすねを引いているのだ。
(なんかいいなー、こういうカンジ)
普通に馬鹿をやりあって、相手を値踏みしたりもしてなくて、気兼ねなく付き合える。
それは普通の中学生活だ。
「水野は音楽科なんだろ? 毎日講習?」と北尾が訊くと、千里は笑顔で答えた。
「千里でいいよ、部長さん。 そうだね。うちの学科はほとんど毎日講習。午前だけだけど」
「じゃあ、俺は北尾でいいよ。 そうか、さすがハードだなぁ。俺たちなんか、この三年生の夏休みにのうのうと部活やってるもんな。なあ?」
彼は町田の方に話を振った。
「そうだよな、俺ら相当余裕かましてるもんな。普通科は内部選考でコケる事ねーもんな」
町田は頷きながら答えた。
「いいなー。音楽科なんか、定員の枠内でも及第点取れなかったら即アウトだもん。毎日結構プレッシャーだよー? 高等部まで無事進めたらそれは無くなるみたいだけどさ」
及第点を割ると、普通科への転科を勧められる。
その場合、五教科の点数が普通科の及第点に達していない生徒は転校を勧告されるのだ。
元々授業内容が音楽的な事に偏っている事もあり、脱落者の大半は転校を余儀無くされる。
「へーえ。俺、普通科でよかった…」
平池が言った。
「でも、普通科だってうかうかしてたらヤバいんじゃん? 偏差値結構高いんでしょ? この学校」
推薦入学だった為に、一般科目の学力の事を千里はあまり知らないのだ。
「上の中ってとこか?」と、町田が北尾の方を見る。
「うーん…まあ、外部受験するとそれなりに高いけど、中等部で潜り込んだらそこそこでいけるかな?」
どちらにせよ、二年生の学年末でほぼ高等部進学の内定が取れるようになっているので、受験戦争を意識する事はあまりないらしい。
重大な違反や出席日数の不足など、生活態度に著しく問題が無ければ、全員持ち上がる事が出来るのだ。
高等部に於ける外部受験の定員は、常に総定員から内部持ち上がり組の数を引いたものになるのだそうだ。
進学校の割に、緩い一面がある。
その結果という訳ではないが、高等部で特進クラスに入る生徒は外部受験者の割合が非常に高い。
「千里、どうせ毎日学校出てるんならまた来いよ。午後からヒマなんだろ?」
ついぼんやりとこの学校の事を考えていたら、北尾が軽く肩を叩いて笑った。
今日が初対面のはずなのだが、北尾はごく自然に千里を名前で呼んでいた。
しかし、不思議とそれは慣れ慣れしいものには感じられなかった。
「うん! 絶対また来る!」
そう約束してその日は別れた。
本来の自分を取り戻す事が出来た。 それは、そんな一瞬だった。
そして千里は、本当に夏休みの間ほぼ毎日洋弓部に通い続けたのだった。