scene.3

 ふと顔を上げると、川島宏幸は、難しい顔をして押し黙っていた。
「あの…?」
 忍は怪訝に思って川島に声を掛けた。
「ああ、うん…」
 すると、彼らしくない生返事が返ってきた。
「生きては、いるんだがなぁ……」
 更に、彼はぽつりと呟く。
 その口調や様子に、何か重篤な事態がある様には感じられない。
 ただ、困惑している様な雰囲気だった。
「どうしたんですか…?」
 忍の問い掛けに対する、彼の答えは全く予期し得ないものだった。
「記憶が抜けてるんだよ  きっかり十年分…。あいつの頭の中、今ちょうど高校一年の冬なんだ」
 それが、彼の困惑している理由だった。
「…だから、君の事が  記憶に無いんだ。……何せ、背尾とさえ出会ってないからなぁ」
 忍の事を憶えていない。
 それをどう告げるべきか、彼は迷っていた様だ。
「そう…ですか」
 忍もまた、予想外の事態にどう返事して良いのか分からなくなった。
(憶えてない…? 今までの事、何も?)
 神ならぬ身で、時間を断ち切ろうとしたことへの、これは罰なのだろうか。
「なぁ、忍君。こんな時にこんな言い方、無神経なのかもしれないけど…」
 忍が半ば途方に暮れていると、川島が突然口を開いた。
「実は、意外とこれは良かったのかもしれない、って俺は思ってるんだ」
 彼は、至極真面目な顔でそう言った。
(良かった…?)
 忍は一瞬自分の耳を疑った。
 志月の友達であるはずの彼が、何故そんな風に思うのか分からない。
「あ、分からない顔してるな」
 混乱している忍の顔を見て、彼は苦笑した。
「何て言うかな…。アイツは、どちらかというと背尾の生き方そのものに心酔してたんだよな」
「心酔…ですか?」
「尊敬、とも言うね。目標に向かって、全て振り捨てて邁進していく  そういう生き方に、多分…憧れたんじゃないかな」
「まぁ、生まれる前からレールが敷かれてる人間から見たら、そういう自由さってのは一種のカルチャーショックだったんだと思うよ。そういう意味で、背尾の死っていうのはアイツにとって、恋人の死という以上に生きる上での指標を失う事だった。だから、思い出にする事すらも出来なかったんだろうね」
「………」
「けど、どれ程鮮烈な記憶だとしても、それじゃぁ生きていけない。身体で考えれば分かるだろう?
 怪我をして、いつまでも血が止まらなかったら、いずれ死ぬしかないじゃないか」
 彼は困った様に微笑む。
 そして、更に言葉を続けた。
「その傷が、いつまでもアイツを苦しめるだけなら、今は忘れていていいんじゃないかって、…俺は思うんだ。
 あのままの状態が続けば、アイツは遅かれ早かれ自滅したんじゃないか、って思うよ」
 そう語る彼もまた、胸中は複雑に違いなかった。
 彼自身も、全てではないにせよ、共有してきた記憶を忘れ去られた一人なのだ。
「川島さん…」
 忍は、彼にどう返せば良いのか分からなかった。
 自分が仕掛けた事が生み出した結果だからだ。
「なぁ、忍君。今の状態って、ニュートラルだと思わないか?」
 突然、川島は話を変えた。
「ニュートラル…ですか?」
 突然そんな事を言われても、何の事だか忍にはさっぱりだった。
「そう。  今、あいつの中には君もいないけど、背尾もいない。真っ白だ」
「ええ…まぁ…そう、ですね」
  て、事はさ、これから始められるって事なんじゃないかな」
「は…?」
 忍は混乱した。
 一体、彼が何を言いたいのか、まるで見当も付かない。
「いろいろ捩れていた糸が、せっかくリセットされたんだ。
 もう一度、出会うところからやり直してみるっていうのも、アリじゃないか?」
 そう言った彼は、やけにすっきりした顔をしていた。
 志月の抱えていた傷に、この人もまた痛みを抱えてきたのかもしれない。
 友人でありながら、ただ見ている事しか出来ない事に、苦しんできたのかもしれない。
 この折に、不自然な程晴れ晴れとしている彼の表情を見て、忍はそう感じた。
「もう一度…最初から…ですか?」
 問い返すと、彼は大きく頷いた。
 何も無い、真っ白な状態で。
 そんな事が、許されるだろうか。
「そう、最初から。もちろん、このまま出会わない、という選択肢もあるけどな」
 先日、ちらりと覗かせた不敵な笑みが浮かんでいた。
「あ…そうか」
 忍は、今更途方に暮れた。
(確かに…このまま会わない…方が、むしろ志月には良いのかも…)
 その方が、話がややこしくならないで済む、と思った。
「…ごめん、今のは意地悪だったかな。
 まぁ、どの道お互いしばらく入院生活なんだし、ゆっくり考えると良いよ」
 彼は、次の言葉を捜せないでいる忍の頭をくしゃくしゃと撫でた。
(考える…?)
 忍は、自分のこれまでを振り返ると、一度も自分で考えて行動した事が無いのに気付いた。
 常に受身だった自分に気付いた。
「これから先の事は、君が自分で決めるんだ。まず自分自身の選択をして、相手の事を考えるのは…それから後の事だ。俺がさっき言ったのは、そういう事でもあるんだよ」
 川島が柔らかく微笑んだ。
「相手の出方を考えながら行動するばかりが、人を想う事じゃない。自分の気持ちをまず表に出してやらなきゃ、どんどん自分が自分でなくなっていってしまうだろ? 人を好きになるって言うのは、そういう気持ちのせめぎ合いでもある。自分が後ろへ引くばかりじゃ、ダメだ」
 川島が、忍の頭を軽く叩く。
 今まで、考えた事も無い事だった。
 自分の気持ちを、表に出す。
 そんな事をしてはいけない、と思っていた。
 彼の望む自分でなければならない、と思い込んでいたのだから。
「…疲れたかな?」
 中々続く言葉が出せない忍に、川島がそう言った。
 その言葉に、忍は無言で小さく頷いた。
 疲れた、というより、まずは落ち着く時間が欲しかった。
 川島が言った言葉を、ゆっくり考えてみたい。
「じゃあ、いつまでも起きてたらいけないな。寝まなきゃ」
 忍に横になる様に促すと、彼は静かに立ち上がった。
 そして、少し捲れた布団を掛け直してくれ、病室を出て行った。


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