2.首都高→小田原厚木道路/ 12月17日 PM8:00
出発した直後から、七海は携帯電話を掛け続けていた。
検索ワードは『温泉』『旅館』『関東』。
どうも、温泉が重要なようだ。
(そう言えば、温泉ってのは何かにつけ聞いた気がするよな。
行く機会も無いし、何となく聞き流しちまってたけど )
七海が好きなもの。
コーヒー。
酒。
栗。
古代生物。
温泉旅行。
彼は自分の話をあまりしない気質である。
しかし、それでも短くはない日常生活を共に過ごすうちに、折につけ、ぽつりぽつりと耳にしていたのだ。
しかし彼の印象は、いつもどこか淡白だった。
振り回されている、理不尽だ、そんな風に言っては、そんな彼の態度さえ自分に気を許してくれているようで、嬉しくて、自分は本当には七海を理解しようとしていいなかったのでは。
(そりゃ、冷たいって言われても文句言えねぇのかも…)
七海が携帯を握っている間、当然事ながら要は黙っている。
とかく、意識して黙っている時間と言うものは思考の溝に嵌まりやすい。
出発してから幾つめかの道路標示が見えた。
「七海さん、そろそろ海老名ですよ。このまま東名走りますか? それとも小田原入ります?」
御殿場、富士方面なら東名道路。
箱根、湯河原方面なら小田原厚木道路。
早くも、一つ目の選択肢が現れた。
「じゃ、とりあえず小田原の方行って。どのみち、御殿場や裾野は温泉旅館あんまりないから」
富士山付近に温泉が無い訳ではないのだが、ホテルやコテージなど、洋風の施設が多い。
彼の拘りは、あくまで『温泉旅館』にあるらしい。
「了解です」
要は七海に言うままに左へハンドルを切った。
七海の方も、熱海・湯河原に検索の的を絞り始めた。
「…っそー。どこもいっぱいだなー」
何件目かの電話を切って、ぽそっと呟く。
どうも空振り続きらしい。
「スーパー銭湯みたいなところなら、とりあえず中には入れるんじゃないですか?」
個室は取れないかもしれないが、少なくも泊まれる。
「苦手なんだよ、そういう落ち着かないの。…っと、湯河原も後3件か」
眉根を寄せた横顔が、溜息を吐く。
(拘り出すと頑固だからなぁ…この人)
下手をすると、このままドライブで一晩過ごしてしまうのではないだろうか。
その時だ。
急に七海の身体が弾かれる様に、前へ乗り出した。
「本当ですか? はい、はい…今、厚木ICです。…2名です。ええ。じゃあ、それでお願いします」
通話を切った七海が、大きく息を吐いた。
「見つかったんですか」
要は、目だけを一瞬七海の方へ向けた。
「半径1時間とは行かなかったけどな。奥湯河原に1件、急なキャンセルで部屋が空いたみたいだ」
奥湯河原なら、2時間弱というところか。
「一応、許容範囲ですかね。七海さん、オフコールでしょ?」
余程の緊急事態でもなければ、本来招集されない予定。
「オンだったら、都内から出ないよ」
七海が苦笑した。
「そりゃ、そうですね」
要も釣られて笑う。
そして、ようやく見つけた一夜の宿を、七海はナビの目的地に登録した。
「遠藤、見てみろよ。月が出てる」
七海が助手席側の窓に目を遣り、弾んだ声で言った。
「見れないですよ、運転中です」
今度は要が苦笑いする番だ。
「あ、そっか」
笑いを含んだ声が返ってきた。
自宅に映像機器、オーディオ機器を置かない彼は、車でも音楽は掛けないらしい。
聴こえる音と言えばタイヤの音と、エンジンの駆動音、そして、背後から追い越しを掛けてくる車の音。
静かな車内。
「帰省以外で遠出するのは、何年ぶりだろ…」
七海が呟いた。
「普段、あまり出掛けられませんしね」
今度は独り言だったのだろうか。
相槌は打ってみたものの、七海の目線は月の見える窓に向いたままだった。
前を向いている要には、フロントガラスに微かに映る横顔が見えるばかりだ。
「それでも、今はまだ比較的しっかり休みは取れるようになったかな?」
数秒遅れて返事が返ってきた。
七海が正面に向き直り、両腕を伸ばす。
「疲れました? 休憩挟みますか?」
「いや、大丈夫。ちょっと感傷に浸ってただけだから、気にしなくていい」
ガラス越しに苦笑いを浮かべる。
「感傷、ですか?」
反射的に聞き返してしまったが、果たして聞き返して良かったものだろうか。
それを見ていた七海が声に出して笑い出した。
「なっ、何ですか?」
「何って…、こっちこそ『何?』だよ、そのお前の『ヤバい事訊いた!』みたいな顔」
またしても顔に出ていたのか。
思わずハンドルを握っていない方の手 左手で自分の頬を擦る。
「あ、やっぱりそう思ったんだ。素直過ぎ! つか、引っ掛かり過ぎ!」
爆笑。
(…顔に出てた訳じゃなかったのか)
カマ掛けに引っ掛かったのだ。
余分に気を回して却って間抜けになってしまった。
「怒るなよ、悪かったって。あんまり顔に出なくなったじゃないか、進歩進歩!」
いつもなら頭を撫でられてしまう場面だが、車内で座席が固定されている為に届かなかったのか
(頬を撫でられてしまった…)
結局子供扱いに変わりないところが、少々腹立たしい。
「で、感傷って何です!?」
「さっき言っただろ? 遠出するの久しぶりだって」
「それは聞きましたけど 」
「ましてこんな強行軍、自分からしようなんて考えた事も無かった」
引っ張り出されて、と言うのは研修医時代に一度あったけど、と小さく笑った。
確かに、今日の今日でしかも夜、行き先も決めないまま出発するなど無謀と言わざるを得ない行動だ。
要の知る七海には、あまり馴染まない様な感じはする。
(思いつきで動く人ではあるけど、普段は行動半径狭いからな )
休日には完全に電源の切れる七海は、基本的に徒歩圏内から外へ出ない。
もちろん、拘束当番が多いため、あまり病院から離れられないのもあるのだが。
「たまには、無茶をしてみたくなった ってところかな」
そう言うと、また七海は窓の方へ目線を戻してしまった。
暗い車内で、青白く浮かび上がる七海の首筋と、頬のラインが婀っぽい。
さっき撫でられた頬と、また別の場所が、熱を帯びる。
本能が、求める その、感覚。
惰性。
焦燥。
日常。
そんな不純物を取り除いた後、そこに残るもの。
最近、すっかり忘れていたもの。
(ヤバ…)
慌てて熱を払おうと、要は自分の頬を擦る。
瞬間、目に入ったのは小田原西ICの標示。
目的地の奥湯河原は、もう近い。
そんな葛藤にはまるで気付かない七海が、小さな声で呟いた。
「潮の匂いだ…。不思議なもんだな、密閉された車の中にも、その土地の匂いっていうのは染み込んでくる」
(そうか、今、海沿いの国道と数キロ程の距離で並走してるんだな)
言われて初めて要はその匂いに気づいた。
その時、たまには無茶をしてみたくなった、と言った七海の気持ちが分かった気がした。
それは、シンプルになるため。
多少の無理を押してでも、煩雑な日常生活のすべてを切り離す。
それが、今の自分たちには必要だったから。