Scene.2 渡 辺 教 授
1.リストランテ"RACCOLTO" 12月16日 PM7:00
桜川駅前から程近い、イタリア料理店『RACCOLTO』。
要は、およそ自分に不似合いなその高級レストランの予約席に座っていた。
向かいには、渡辺教授。
そして、隣には七海。
己の給料では到底賄えない様な高級料理が並ぶテーブルを眺めながら、それでも食欲は湧いてこなかった。
(緊張で、胃に穴が空きそうだ…)
痛みだしそうな胃を宥めながら、それでも招待主に失礼にならないよう、少しずつ料理を口に運ぶ。
「あれ? 遠藤、イタリアンは苦手だったのか?」
隣の七海が、いつもより進みの遅い要の食事を見て不思議そうに言った。
「おや、苦手なら、申し訳無かったかな。事前に訊いておけば良かったね」
教授が要の顔を見て、微かに笑った。
「いえ、全然苦手ではないんです! ちょっと疲れ…、いや、寝起きで…」
(どう答えても拙い……!)
頼むから、今この時このタイミングでその『振り』はやめて欲しかった。
我知らずの風情で食事を続行している七海の顔を、要は恨めしげに横目で見た。
すると、教授が突然笑い出した。
「?????」
何だ。
何が起こった。
「いや、失礼。何と言うか、正直だね遠藤先生。なるほどね、七海と気が合う訳だ」
堪え切れない笑いの隙間から、教授が頓狂な事を言い出した。
「は?? あの、それは、どう言う…?」
「いやいや、君の指導医殿は隠し事されたり嘘を吐かれるのが苦手だから。君ほど顔に出れば分かり易くて疲れないのだろう」
「はあ…」
もしかして、単純で読み易いと言う事か。
少々引っ掛かる言われようだが、相手は教授だ。
こんなものだろう。
(いや、むしろ良い人な方だよな。この人)
研修医の進路にまで気を遣ったり、マメに現場に顔を出したり。
「大した話でも無いのだがね、1年近く研修してきた訳だが、ERはどうだい?」
悠然と料理を口に運びながら、教授は言った。
「そうですね…やっぱり即応力を求められる部署ですから、最初はかなり戸惑いました」
診療科目を問わない千差万別の患者が、矢継早に運ばれてくる場所。
最初の頃は、指示を貰わなければ指一本動かせず棒立ちになっていた。
「それから? 難しい事は考えなくて良い。率直な感想として、何を感じてる?」
それから。
「社会が凝縮されたような、人生の縮図を見てるような 」
それは、最近になって感じるようになった事だ。
物理的ではない部分を観察出来る余裕が出てきて、人間観察と言うものをするようになったのだ。
「ははは。その感想は、研修医に限らず一番多いな」
教授がそう言って笑った。
なるほど。
やはり同じように感じる人は多いのか。
「恭…教授! 世間話も結構だけど、一体何の用事で教師と生徒を丸ごと呼び出したんだよ」
いつまでも本題に入ろうとしない教授の顔を、七海が睨んだ。
「全く、相変わらず短気だな。お前は」
そう言って教授は、可笑しそうに七海の顔を見ていた。
以前七海が言っていた通り、教授の方にはまるで二人の関係を隠すつもりは無いらしい。
七海の方は煩わしいと言って、極力隠したがっている。
しかし。
(『キョウ』の後、微妙に詰まっていたような…)
渡辺教授のフルネームは、渡辺恭介。
(普段は、多分『恭介』と呼ぶんだろうな)
こんな調子で、当の本人もあまり隠し切れていないような気がする。
等と、この場には何一つ関係の無い、かつ、下らない事を考えてしまった。
「まあ良いだろう。肝心の本題へ入ろうか」
教授は足を組み直し、真っ直ぐに要の顔を見据えた。
「は、はい」
思わず姿勢を正した。
七海は、自分で促しておいて興味無さそうな様子で食事を再開した。
「さっきも言った通り、もうすぐ1年 つまり救急部の御勤めが明ける訳だが…その後の事を私は君に話したと思う」
教授がさらりと切り出したこれこそ、七海に話さなければと思いつつしそびれていた話だった。
「その後の話って 」
七海が眉根を寄せて要の顔を見た。
「いえ、話そうと思っていたんですけど、どういう訳か、そういうタイミングでいつも話を遮られるパターンが続いて…」
「どういう訳もこういう訳も…」
「いや、だからタイミングが…昨日も話そうと思ったんですよ。思ったんですけど、やっぱりタイミングが合わなくてですね 」
昨日も、要がその話をしようとした途端、崎谷が医局に飛び込んできた為に遮られてしまった。
「七海、話が進まん。先に私の話を済ませて良いか?」
「……」
教授の一言に、七海は憮然としつつも口を閉じた。
危うく、教授の前で揉める所だ。
(でも、このまま教授が例の話をしたら、もっと抉れるだろうな…)
要はこの時、本音を言えば逃げたいくらいだった。
(まさかこんな風に教授に呼び出されるなんて考えてなかったしなぁ…)
出来れば自分の口から伝えたかった事を、どうやら教授の口から告げられてしまいそうだ。
教授は、七海がそれ以上口を挟まなくなったのを確かめ、漸く本題を口にした。
「遠藤先生、先日私が薦めた第一外科へ入局する話は、よく考えてもらえただろうか。
勿論、私が向こうの教授にはよく推薦しておく。
まだまだこれからの遠藤先生にとっては、良い機会だと思うが…如何かな?」
話しそびれていたのは、初期研修終了後の入局先だ。
後期研修 いわゆるレジデントとして、自分がどの科で専門的な研修を受けるのかを選ばなければならない。
その選択肢として、救急救命部の部長は第一外科を提示した。
しかも、第一外科部長への推薦状付きで。
(普通に考えれば、おいしい話なんだろうけど…)
元々、希望していた医局だ。
そこへ無条件に入れてやろうと言うのだから、夢の様な話である。
「第一外科…?」
隣の席の七海が、驚いた顔で小さく呟いた。
聞いてない、と顔全面に書いてある。
「恭介さん、何でわざわざ外の医局を?
本人が良ければ、このまま救急部に残っても良いじゃないか」
七海の視線は、要ではなく、教授の方に向いていた。
「さっき話題に出たろう。救急医療は即応力だ。
その場で命を繋ぐのが仕事であって、一つの症例に根治まで向き合わない。
本人のスキルアップの為には、専門科に対する知識を深めるのは悪くないはずだ。
そもそも、うちは三次救急の看板を上げている時点で、手術適用以上の患者が搬送されてくるのが前提条件だ。
外科的な専門知識はむしろ必須条件と言って然るべきだろう。
現に、小田切は元々胸部外科の専門医だった。
お前も、外科や脳外の経験は長いはずだ」
畳み掛ける様に、教授は自分の提案の必然性と正当性を並べ立てる。
「そりゃそうだけど…いや、僕の入職当時にはERなんて無かったじゃないか。
だから必然的に外科にいただけであって 」
「しかし 今現在、救急医としてその頃の下積みは物を言ってるんじゃないか?
研修医がそのまま救急だけで経験を積んだら、下手すればその場凌ぎの応急処置しか出来ない医者になるぞ」
「それにしても、何も僕を抜きにしてそんな話しなくても良いだろ。
……仮にも教官は僕なんだから」
そうなのだ。
私的な関係を抜きにしても、これは完全に頭越しと言う奴である。
実は、そこが気になっていて、話すタイミングを逸していたのだ。
教授の口から伝えられていないものを、自分が伝えて良いものか、かと言って、伝えない訳にはいかない問題で
(さ…最悪だ…)
最早、当の要の意見など差し挟む余地は無く、歳の離れたはとこ同士が要を挟んで睨み合っている。
(いや、睨んでるのは七海さんだけか…教授は笑ってるよ…)
正直に言うと、この話を教授に提案された時、心が動いたのだ。
教授の意見は一々尤もだったし、最先端医療への興味は勿論あったし。
何より、今のままでは本当の意味で、ERの 七海の役に立てているとは思えなかった。
専門科での修行 それは確かに必要なはずだ。
「別に、ERから完全に離れてもらおうなんて思ってはいないさ。
うちとしても、優秀な人材は喉から手が出るほど欲しいし、程々の腕前でも手放したくない」
不敵に笑って教授が要の顔を見た。
(何か、引っ掛かる言葉だなー……)
自分は前者か、それとも後者か
(この場合は、間違いなく後者だな…)
心の中でぼそっと呟く。
胸を張って優秀とは到底言い難い。
やれやれと溜息を吐く要の前で、七海と教授の討論は続く。
要の事が議題でありながら、二人の目にもう要の姿は映っていない様だ。
それにしても。
(ふと思ったけど、教授は七海さんと親戚なんだし、公私共付き合い長いのに、こういうやり方すると拗れるとは考えなかったんだろうか)
自分の知らないところで話が進む 別に七海だけではないだろうが、彼の最も嫌う行為の一つだ。
だからこそ、要ですらこういう場面を避けるべく事前に話しておこうと思ったのに。
(このところシフトがずっとズレてたから、ゆっくり話をする暇も無かったし )
かと言って、医局ではしづらい話である。
(ヨソの医局に行かないかって話だからな)
それにつけても、教授もまた結論を訊きに来るのが早過ぎると言うものだ。
(いや…早くもないか。一週間はあったし…それに、研修が終わるまで後2ヶ月ちょっとだと考えればむしろ遅いくらいで )
いや、待てよ。
(そもそも、この話の出てきた時期そのものが遅いんじゃないのか?)
何か、色々不可解だ。
(何で今更この時期になってそんな話が?)
二人の舌戦を他人事の様に見送りながら、要はどこか釈然としないものを感じていた。
降って湧いた、などと言うと語弊があるのかもしれないが、実際のところ唐突な話だ。
医局同士の根回しはおろか、事前に何一つ打診も無かった。
「まあ、結局のところは、遠藤先生が自分で決める事だ。外野がごちゃごちゃ口出ししても仕方ないだろう」
笑いながら、教授は肩を竦めた。
その表情に、更に七海が憮然とした顔をした。
それを見て、要は余計に居心地が悪くなった。
本来、要自身に何ら非のある話ではない。
どうしてそれがこんな針の筵に座らされたような気分を味合わされなければならないのか。
(どうにかしてくれ……)
「本当のところ、私としては今夜にでも好い返事を貰いたかったが、そうもいかない様子だな。
今回は、メリットを念押しするだけとしよう」
30分に及ぶ議論の果て、本人そっちのけの移籍話は一応の終止符を見た。
教授が結論を持ち越したからだ。
そして、2時間ほど『歓談』したのち、この冷や汗ものの会食は無事幕を引いた。
非常に美味しいはずの料理は異次元にでも吸い込まれたのか、全く味が分からず仕舞だった。
いや、料理の味より何より、本当なら自分の口から伝えたかった 伝えるべきだった話を、 結局第3者から伝えられてしまった事が悔やまれてならない。
(そもそも…ここまでタイミングを逃し続けてしまったのは、俺が、迷ってるからだ…)
降って湧いた、第一外科入局の話。
確かに、元々は目指していた医局だ。
この話に、心が惹かれない訳が無い。
しかし、この一年で救急医療に本気で取り組みたいと思い始めた自分がいる。
私情を入れても、抜いても、常盤木七海と言う人間の傍にいたい自分もいる。
(だけど、その為にはまず外科的な技術を身につけるべきだと言う、教授の意見は一理も二理あるし )
そんな事を延々迷っているうちに、時間を無為に過ごしてしまった。
そうして、この最悪の場面を迎えてしまったのだ。
こんな話を、第3者から聞かされる羽目になった七海は、きっと怒っているだろう。
教官としても、恋人としても、面白い訳が無い。
けれど、ちらりと覗き見た横顔からは、彼の感情を読み取ることは出来なかった。