Scene.1 自 殺 企 図
1.レジデンスR/1101号室 12月15日 PM2:45
(目が覚めちまった)
今日は当直だと言うのに。
城聖大学医学部付属桜川病院救命救急部所属、肩書きは研修医 遠藤要は大きく溜息を吐いた。
今年も残すところ後僅と言う12月の半ば。
その日は、夜半から降り続く雨が空気を冷たく湿らせていた。
しかし、急速に温度を落とし始めている晩秋の気候に比べ、空調が動いていないにも係らず、部屋の中は信じられないくらい温かかった。
さすがは高級分譲マンション、と言うところか。
当然、しがない研修医に過ぎない要の部屋ではない。
寝転がったまま、そろっと身体を左へ傾ける。
要は、マットレスだけのシンプルな寝床で、自分の腕を枕に寝入っているこの部屋の主、常盤木七海の顔を覗き込んだ。
彼は、救命救急部 通称ERの主任医師だ。
その七海の指導を受け初めて10ヶ月。
付き合い始めて9ヶ月。
もうすぐ、1年になる。
寝顔だけ見ていると、年齢よりも遥かに若く いや、幼く見える。
無防備な顔。
付き合い始めた頃には、なかなか見られなかった顔だ。
微かな寝息を立てている彼の髪を、そっと梳いてみる。
触れられてもぴくりとも動かない。
熟睡している。
(こうしてると可愛いよなぁ)
上司だし、なかなか時間は合わないし、それに何より同性だし。
改めて考えるまでも無く、恋人としては見事な三重苦である。
それでも可愛いと思ってしまうのだから、仕方ない。
(…言ったら、殴られそうだけどな)
閉じられた目蓋を指のはらで軽く撫でながら、要は苦笑した。
彼はその強い矜持を以って他人に『可愛い』などと言わせないだろう。
身体は小さいし、顔は童顔だし、くせのある猫っ毛はやたら柔らかいし、外見だけなら同年 いや、服装によっては年下に見えるかもしれない。
しかし、そんな見た目とは裏腹に、彼がその背中に負っているものはとても大きなものだった。
責任とか、軋轢とか、恐怖とか、その他諸々の重圧を封じ込めた瞳が、固く閉じている。
今は安らかなその顔が、苦痛に歪まないよう、守りたい。
しかし思いとは裏腹に、守られているのも、引っ張ってもらうのも、支えられているのも、それはいつも自分ばかりだった。
とても強い人だから、守りたいなどと考えること自体、おこがましいのかもしれない。
(分かってるけど、守りたいんだ)
一方的ではなく。
補い合える人間になりたい。
そうなるための自分を何度もシミュレートするが、一向にその方向は定まらなかった。
ひたすら傍にいる事が答えではないと言う事だけが、最近ようやく分かってきたばかり。
それでは、どうすればいいのだろう?
的が定まらなくては、足を進められない。
一層大きな溜息を吐いた時、左腕の上でもそ、と頭が動いた。
(起きたかな?)
単なる寝返りかもしれないので、まだ声は掛けなかった。
当直の要は、夕方には職場へ赴かねばならないが、七海の方は昨日が当直明け 今日はオフだ。
眠っていられるなら、そのまま寝んでいる方がいい。
「………」
やや間を置いて、彼は寝転がったまま目だけを開いた。
七海の寝顔を眺めていた要と、視線がぶつかる。
「目、覚めました?」
相手が目を開けたのを確認して、要は身を起こした。
「救急車…」
眠そうに眉根を押さえながら、七海が呟く。
それは、要の問いの答えとしては少々ちぐはぐなものだった。
「は……?」
「救急車、近付いて来てるな」
何度も目を瞬かせながら、彼は繰り返した。
「え?」
要は、一瞬、七海は夢の話をしているのかと思った。
ところが。
数秒置いて実際にマンションの前の道路を救急車が通り過ぎていった。
(どんな聴力だよ…)
救急車のサイレンに敏感になるのは職業病と言って差し支えないであろうが、今の今まで触られていても起きないくらい熟睡していたくせに、覚醒している人間より先にサイレンに気付いて目を覚ますと言うのは
ここまでくると、尊敬を通り越して開いた口が塞がらない類のものである。
「うちの前を左から右へ走ってったって事は…うちで受け入れたな」
この場合、先の『うち』は七海の住んでいるマンションを指し、後の『うち』は職場である桜川ERを示している。
ドクターオンコール 休日でも緊急事態には呼び出されると言う拘束当番時、あまり遠い所に住んでいると非常に不便だ。
それを体現しているのかどうかは知らないが、七海の部屋は、ERから僅か徒歩5分と言うこの上なく理想的な立地条件だった。
「さて? 呼び出されるかな?」
ようやく身体を起こした七海が、苦笑した。
今日は常勤の医師の内の何人かが学会など所用で現場を離れている。
やや手薄なシフトになっていた。
「携帯携帯 」
窓側に寝ていた七海が、同じベッドの部屋側で座っている要の膝越しに上半身を伸ばして、マットレスの下に放置している携帯に手を伸ばした。
「またそんな横着な つか、言ってくれたら携帯くらい取りますよ」
要の膝に、七海の体重が掛かる。
「いいよ。手伸ばせば届くんだから」
携帯を手に取り、彼は元の位置に身体を戻した。
「 いや、実は、目の遣り場が…」
ブランケットから這い出てきた七海は、昨夜眠る前のまま 衣服を脱ぎ散らかしたままだった。
「自分で脱がせといて目の遣り場もあったもんだ」
呆れた声で、七海が言った。
「いや、そりゃそうですけど 」
それはそれ、これはこれと言うか。
「何だ、もしかして、し足りなかったとか?」
揶揄い口調で、七海が要の肩に腕を乗せてきた。
「十分です! あんまりそういう冗談言わないで下さい! ついでに、触るのは服を着てからにして下さい!」
「あ、そう」
ふーん、みたいな顔で、今度は要を跨ぎ越して七海はマットから飛び降りた。
最近、どうも彼は要を揶揄って愉んでいる様子である。
(子供か、っつの)
起き抜けに自制心との戦いを余儀なくされるのは、はっきり言って疲れる。
「ま、どうでもいいや。とりあえず身支度だけはしとけよ。出勤時間にはまだ早いけど、お前も呼び出されるかもしれないからな」
起きたらこれだ。
要は溜息を吐いた。
そもそも、覚醒している時の七海は、到底可愛いようなキャラではないのだ。
(やれやれ。可愛いのは寝顔だけか)
もう一度、更に深い溜息を吐いた。
その時だ。
七海の携帯が無機質な電子音を響かせた。
「はい、常盤木携帯です。 はい、……はい……はあ!? ああ、まあ…分かりました。すぐ出ます」
突然七海が素っ頓狂な声を上げた。
そして、通話を切った後の顔は憮然としている。
明らかに機嫌が傾いている様だ。
「……どうしました?」
「予想通り、出て来いってさ」
(いや、それは分かったけど。何でそんな不機嫌になってんだ、この人は)
呼ばれるのは自分で予想していたのだから、呼び出された事が理由ではないはずだ。
「わざっわざ! 医局長が電話寄越してきたんだけど、『どうせお前ら昨日の晩から一緒にいるんだろ、二人まとめて出て来い』ってさ」
「はあ」
その一言で、何となく理由が読めた。
ERの医局長は人を揶揄うのが生き甲斐のような人物なのだが、そんな上司に二人の関係は既にバレている。
職場恋愛に気付いた医局長は、決して周囲に言いふらしたりはしなかったが、時々七海を軽くつついたり、要を揶揄ったりして愉しんでいるのだ。
今も、おそらく、すこぶる愉しげな揶揄い口調で電話を掛けてきたのだろう。
自分もすぐに要を揶揄いに掛かるくせに、この眼前の人物は自分が揶揄われるのは何が何でも気に入らないと言うのだから、何とも我儘な話である。
そうしている間にも七海は既に身支度を終えていた。
「早くしろよ」
要の方が先に起きていたが、支度の方は七海より少し出遅れている。
「すみません」
遅れること十数秒、最後に靴下を履いて、準備完了。
「オッケーです」
もう玄関先で靴を履いている上司を、慌てて追いかける。
定時も休みもあったものではない。
そんな生活にも慣れてはきたけれど。
(あーあ…。ややこしい患者じゃなきゃいいな)
そんな事を考えつつ、目と鼻の先、先刻の救急車を迎え入れた建物へ、二人は早足で向かった。
秋の終わりの雨は、未だ降り止まず。
静かに、されど冷たく降り続いていた。