5.桜川病院救命救急部/病棟 12月17日 PM7 :00
「ふう…。回診も終わったし、何とか帰らせてもらえそうかな」
病棟の廊下で堂々と伸びをする七海。
「センセイ!」
その背中を、突然背後から叩かれた。
「っ!?」
振り向くと、そこには古賀雄介が立っていた。
「あー、びっくりした。雄介君、どうかした?」
「どうかしたってんじゃねぇけど、借りた本、返しとこうと思ってさ。
俺、いつ退院決まるかわかんないんだろ?
センセイいない時だったら、返しそびれちまうかもだし」
「意外と、義理堅いんだな」
七海の口から、小さな笑いが洩れる。
「ったりめーじゃん。俺、こー見えても育ちは良いんだぜー?」
「はいはい。一応そういう事にしといてあげるよ」
本を受け取りながら、七海は少し揶揄い混じりの声で応えた。
「あーあ、信用してねぇし。いいけどさ、別に」
雄介がぷく、と頬を膨らませた。
ガードが外れると意外に素直な性格の様だ。
「いや、そんな事無いけど」
「いいって。自分でも分かってっから。
なんつーか、わざとそういう風に見えない様にしたりしてさ。
だから、そう思われないのが、普通。センセイの印象通りでいんだよ」
気負わない口調でそう答えた雄介は、実にナチュラルだった。
おそらく、本音でそう言ってるのだろう。
「センセイ、あのさ」
「うん?」
「その本、面白かった。
ちょっと小難しいとこあったけど」
「そう、そりゃ良かった」
「俺、その作家の本ってさ、映画になったヤツくらいしか知らなかったけど、
短編のが全然深ぇよね。また、貸してくれる?」
そう言った彼の口調は満更社交辞令でもないらしい。
「いいよ。この人の本なら大概持ってるはずだから」
「マジ!? やったー。あ、でも俺もうすぐ退院すんだけど…どうしよっかな」
「面倒じゃなければ、取りに来れば? 詰所の誰かに預けておくから」
「えっ、マジのマジでいいの!? やったね!」
飛び上がりそうなくらい彼が喜んだので、逆に七海は面食らってしまった。
(今時の子が読んでも、そう面白い本でもないだろうに)
「こーがーくーんー!!?」
その時、雄介の背後から、鬼の形相をした看護師が現れた。
「採血するよって言ってあったでしょ!? どうして部屋でじっと待ってられないの!」
「ごめんってぇ。すぐ帰るからさー」
「そんな問題じゃありません!」
「いてっ!」
母親に耳を引っ張られて連れ戻される悪戯小僧の如く、古賀雄介は担当看護師によって病室へ引き摺り戻されていく。
「センセイ! マジありがと! またねっ」
ルートの入っていない方の腕を、雄介は大きく振っていた。
「コラ、廊下では静かに!」
更に看護師の雷が追加。
七海には、もはや無言で手を振り返すくらいしか出来なかった。
「おやおや。
子供は元気だねぇ」
「医局長」
七海の横にひょいっと首を出したのは、医局長だった。
彼の身体から、独特な煙の匂いが漂ってくる。
喫煙所帰りらしい。
「落ち着いたのか? 青少年は」
喋りながら、医局長は医局に向かって歩き出した。
七海もその横を歩く。
「さぁ、どうでしょうね。僕は専門外ですから。
綿貫が色々検査して帰りましたから、あいつの方から報告上がってくるでしょ」
「まあ、表面で見える事と内側で起こってる事ってな、確かに別モンだぁな」
「そういう事ですね」
一見穏やかな川面も、底の方は激しい流れである事も珍しくない。
無駄話をしているうちに、もう医局の前だ。
「それで、お前らの方はどうなってんの」
「はい!?」
医局に入った瞬間だった。 突然どこへ話を持って来るのか、この上司。
「倦怠期か? 何か最近噛み合ってないだろ、お前ら」
「けんっ…たい!」
「ほら、つきあい長くなると馴れっていうか、ダレっていうか。
色々惰性になってくるだろ? 特に、カラ 」
何だか話がアヤしい方向へ転がりそうな医局長の口を、七海は慌てて塞いだ。
「それ以上言ったら、麻酔打ちますよ!」
返す手で、脱いだ白衣を医局長の顔面に巻き付ける。
「ほんらろろっれ…ぷぁっ! お前、俺を殺す気か!」
「殺意の芽に医局長が水やりを欠かさないからです 」
「ったく、お前を突つく時は、スズメバチの巣を蹴る覚悟が要るな」
「そう思うなら、揶揄わないきゃ良いんですよ」
「別に、揶揄いたいばかりじゃないさ。一応本気で心配してんだよ。お前の、それ 」
七海の左腕が、医局長に掴まれた。
「すごい痕だな。指の形までくっきり残ってる」
いつになく真面目な表情だった。
「これは…」
反射的に手首を隠す。
医局長の心配している様なものではない、と弁解しなければならなかったのだが、七海には適した言葉が見つけられなかった。
「いや、俺だって遠藤がそう滅多な行動に出る様な人間じゃない事ぐらいは分かってるよ」
医局長の方もまた、最適な言葉が見つけられないらしく、頭を掻いて嘆息した。
「当たり前です」
七海は憮然と答えた。
「分かってはいる、が やっぱりその痕は遠藤のものなんだな」
「ひっかけ、ですか。相変わらず人の悪い……」
七海の口から諦めに似た溜息が洩れた。
「まあ、そう言うなって。さっきも言った通り、心配してんだ。
お前、時々遠藤がまだ若いんだって事を忘れてるんじゃないかと思ってな」
「え?」
「いや、未熟って言えばいいのかねぇ…」
「何が言いたいんです?」
「あまり若者を追い込むなよって言いたい訳よ。
あいつは妙に落ち着いてるところあるけど、まだまだ子供なんだから。
お前と一緒でな」
最後に一言付け足した医局長の顔は、もういつもの揶揄い顔に戻っていた。
「だ…っ、誰が子供ですか! 遠藤と一緒にしないで下さい!」
「お前。特に、そうやってムキになるところ」
「〜〜〜〜!」
いよいよ返す言葉が無くなってしまった。
どうやら、今日の勝負は医局長に軍配が上がったようだ。
「ははは。
冗談はさておき、早く帰ってやんな。待たせてんだろ?」
さきほど医局長の顔面に思い切り巻き付けてやった白衣が、七海の顔に飛んで来た。
「何付いてるか判らないもの、ヒトの顔に投げないで下さい」
投げつけられた白衣を、そのままランドリーボックスに放り込む。
「お前なぁっ、そんな危険な白衣を人の顔に巻き付けんじゃねぇ!」
「じゃ、可愛い恋人が待ってるのでさっさと帰らせてもらいます。お疲れ様でしたー」
一矢報いたと言うところか。
上司の抗議は無視して、思い切りにっこり笑ってやった。
「ったく、可愛くないヤツだな。さっさと帰りやがれ!」
退出間際、「第一、あのやたら嵩の高い男のどこが可愛いんだ」とかぼやく声が聴こえたが、そこはスルーして七海は足早に病院を後にした。
*
帰り道。
冬の空は冴々と蒼い。
空には星が出ていた。
(見えるのはオリオンばかり也、だな )
長野の高原地域で幼少時代を過ごした七海にとって、東京は随分空が遠く感じた。
この季節なら 七海はすっかり陽の落ちた空を見上げながら呟いた。
「…ポラリス
シリウス プロキオン ペテルギウス」
この辺りの星なら、都会でもまだ十分見れる。
カストル
ポルックス
アルデバラン
スピカ
リゲル
カノープス
これらはもうほとんど見えない。
「…それから、フォーマルハウト」
みなみのうお座の1等星。
南の一つ星とも呼ばれる、孤高の星。
かと言って、別に周囲に星が無い訳ではない。
残照の頃、空の低い位置で観測されるため、そこには星が一つしか無い様に見えてしまうのだ。
「何を焦ってたんだろうな」
地上光の方が強い都会では、余計見えにくいその星を瞼の裏に描きながら、七海は苦笑した。
「僕は、一人になる訳じゃない。
今まで、一人だった訳じゃない」
いろんな人がいて、支えられたり、ぶつかり合ったり、惹かれたり、離れたり、幾度となく繰り返してきたのだ。
「まあ、あれで小田切さんはいつも僕を心配してくれてるんだよな」
久々に、彼を『医局長』ではなく、普通に先輩医師の一人だった頃の呼び名が零れ出た。
揶揄い口調で、悪戯者の顔で、自分を支えてきてくれた人間の一人。
背筋を伸ばして深呼吸。
コートのポケットに突っ込んだ携帯を取り出す。
電話帳をスクロールしながら探す、『研修医』の文字。
呼び出すと、要の番号が表示された。
(そう言えば、電話帳の名前…まだ修正してなかったっけ)
意地でも名前を呼んでやらない。
そんな時期があった。
彼の名は、その頃に登録したまま『研修医』になっている。
何故、登録名が『研修医』で問題無く通信出来るかと言うと、プライベートの携帯に他の研修医の名前が登録されていないから。
要するに、最初から、本当に、間違いなく、遠藤要は七海の特別だったのだ。
そのくせ、未だに色々意地を張ってる訳である。
(そういうところが、大人気ないとか言われるんだろうな…うん)
少し態度を改めよう、などと珍しく殊勝な気持ちが頭をもたげる。
「こんなので、よくフラれなかったな、僕も…」
ようやく七海は通話ボタンを押した。
「ちょっと気分を変えなきゃな」
コール音が、1回…2回…3回。
『七海さん?』
「うん」
『良かった。仕事、普通に終わったんですね』
「ああ」
『それで、どうしたんです? もう外ですよね?』
「うん。外って言うか、もうマンションの下なんだけど……」
『へ? 何で上がって来ないんです?』
遠藤が不思議そうな声を返した。
「ああ、うん。…そうなんだけど。 遠藤、今、外出れる格好してる?」
『え? ええ、まあ。出れますよ』
七海はここで一度言葉を切り、呼吸を整えた。
「これから、出掛けないか?」
『え?』
突然の誘い文句に、頓狂な声が返ってきた。
「この間から、教授が割り込んできたり、急患で呼び出されたり、色々続いたから。
たまには、二人でゆっくり話がしたいな…と…思って。 だめ、かな?」
段々語尾が小さくなっていく。
『………』
途端、受話器の向こうが無言になってしまった。
「遠藤?」
『すみません、珍しかったんで…驚きまして』
言われてみれば、七海は自分からどこかへ誘って、ということをあまりしない。
(自宅デート以外ほとんどしてないんだ、そう言えば)
それも、果たしてデートと呼んで良いものかどうか、疑問の残るところである。
返す返すも、恋人として劣悪な条件の自分に気付いてしまった七海だった。
「いきなりだし、遠藤が疲れてるなら全然無理しなくていいよ。ただの思いつきだから」
『………。
いえ、大丈夫です。すぐ下りますんで、待ってて下さい』
少し困惑した様な沈黙の後、彼は通話を切った。
そして、1分後にはエントランスの前に現れた。
「七海さん、お待たせしました」
「急に、ごめん」
「いえ、嬉しいですよ。誘ってもらって」
そう答えた表情は、いつも通りを装っていたが、妙に緊張している様子だった。
そんな遠藤に、七海はもう一度自分の気持ちを固く持ち直す。
ちゃんと、本音を伝えよう。
この迷路から出るために。