scene.6
翌朝 午前七時に検温、続いて八時に朝食、九時に朝の回診が行われた。
その様子を一部始終眺めながら、「やっぱり病院だったのか」と今更忍は思った。
あまりにも病室の内装や、スタッフの服装がそれらしく無さ過ぎて、忍はここが病院である事を忘れかけていた。
しかし、さすがに回診に訪れた医師や看護師は普通の白衣姿であった。
朝の回診が終わった直後、病室内に置かれた電話の内線が鳴った。
ディスプレイに表示された番号を見て、志月は「受付だな」と短く呟いた。
その後外線に繋がれたらしく暫く話をしていたが、その表情が徐々に険しくなり、何事かを抗議しているのが見て取れたが、忍には話の内容までは分からなかった。
十分後、やっと受話器が置かれた。
さすがに志月はそれを叩き付ける様にはしなかったが、してもおかしくない程剣呑とした空気を纏っていた。
「忍、急かして悪いんだが、出発の準備を整えてもらって良いか?」
そう忍に言った志月の顔は、困惑を隠せないでいる。
「 ? 良いけど、どうかしたの?」
訳が分からず、忍は首を捻った。
「兄が、迎えに来るらしい」
「?? 志月を?」
「いや、忍を」
「は?」
いよいよ訳が分からない。
忍は、過日、川島家で対面した東条佳月の顔を思い出してみた。
「何で?」
「それは 兄が、忍と話したい…らしい」
志月は何か途中の言葉を飲み込んだ。
忍にはその様に見えた。
(何だろう?)
すぐに思い至ったのは、先日、申し出のあった件だ。
(気が変わったから取り消してくれ とか、本当に志月に会いに来るとは思ってなかった とか…?)
どちらにせよ、あまりポジティブな想像をする事は出来なかった。
往々にして急な報せというのは碌な事が無いと相場も決まっている。
「とりあえず二十分後に下のロビーに来ると言っていたから、それまでに準備しよう」
そう言って、志月も忍の荷物を纏め始めた。
荷物と言っても、昨日脱いだ制服と鞄くらいのもので、あっと言う間に荷造りは完了した。
少し早くロビーに下りて佳月を待っていると、志月が不満げに呟いた。
「もう少しゆっくり話したかったのに 」
その表情がとても幼い感じに見えて、忍は思わず吹き出した。
"本当に同い年なんだ"と実感してしまった。
「また来るよ」
「そうか?」
「うん」
「じゃあ、良いか…」
志月が諦めの溜息を吐いた時、思いの外小振りなシルバーの乗用車が病院の前に停まった。
「あ、あれ兄さんだな 社用車じゃないか。自分で運転してきたのか?」
普段は運転手付きの車に乗っているのであろう兄が、運転席から降りてくるのを、志月が怪訝な顔で見ていた。
「朝早くに済まないね」
佳月はにっこり微笑んで二人の前に立った。
「早過ぎますよ、まだまともに話も出来ていないのに」
実の兄に敬語で話している志月に、忍は今更驚いた。
(本当に色々ややこしい家なんだな…)
「まあ、そう言うな。 話がややこしくなったら困るのは志月だろう?」
「それはそうですが」
「さぁ、急がせて申し訳無いが、少しばかり時間が差し迫っていてね。 車に乗ってくれるかな?」
「えっ? あ、ハイ。 それじゃ、またね」
慌しく、まともに別れの挨拶も出来ないまま、忍は佳月の車に乗せられた。
車は昨日通ったのとは別の道を走っている。
住宅街をぐるぐる迂回していたバスに較べて、その道は駅の方向へ真っ直ぐ向かっているようだ。
「申し訳無かったね。私がお願いしたと言うのに、こんな風に急かしてしまって」
佳月は穏やかな声で忍に言った。
「いえ、それは別に気にしていません。 でも、何故佳月さんが俺を迎えに?」
「ははは、冷たいな これでも私も君の身元引受人に立候補しているんだがね」
佳月が冗談めかして笑った。
「あ…っ、すみません そう、でしたね」
忍は慌てて頭を下げた。
「冗談冗談。本当はタクシーを呼ぶ時間も運転手を捕まえる時間も無かったんで、直接私が来る事になったんだ」
「時間が? それはどういう…」
「それは あ、伏せて!」
佳月の声に、忍は反射的に身体を縮めた。
暫く助手席の下に身を屈めて、様子を窺った。
「もう良いよ。済まない、驚かせてしまったね」
身体を起こしサイドミラーを覗くと黒いリムジンらしき車の後姿が映っていた。
佳月が警戒したのはおそらく背後を逆方向へ走行しているその車だったのだろうが、一体何故、何を警戒していたのだろうか。
「今の車は?」
忍はルームミラーに映る佳月の表情をちらりと覗き見る。
「 君には告げないでおこうと思っていたのだが…あれは母の車だ」
佳月の母 つまり、志月の母だ。
「え!?」
もう見えなくなった車を、忍は思わず振り返った。
「今日君がいる事は川島君から聞いていて知っていたんだ。 そこへ今朝、いきなり母が志月に会いに行くと言い出した時はかなり焦ったよ。このままでは鉢合わせになってしまうのではないか、とね」
「…すみません」
やはり勧められても泊まるべきではなかったと、忍は思った。
ただでさえややこしい立場なのに、軽率な行動だったと今更ながら後悔した。
それにしても、もしかしたら院内の誰かから報せが入ったのではとさえ思う程のタイミングの良さだ。
同族の経営する病院の事、あり得ない話ではない。
「君が多分そうして気に病むだろうと思って、あえて話さないでおこうと思ったんだ」
複雑な表情の忍を見て、佳月が苦笑した。
「これは我が家の問題だから、君が気に病む必要は無いよ。 ただ、母と鉢合わせするとおそらく君がもっと嫌な思いをするだろうと、思っただけなんだ」
小さく息を吐き、志月の兄は一瞬視線を宙に彷徨わせた。
その横顔に、酷く暗い翳りを感じたのは、気の所為だろうか。