それきり黙してしまった佳月から視線を外し、眼前に拡がる長閑な風景に目を向ける。
(嫌な思い…か…)
 忍は溜息を吐いた。
 今朝の一連の出来事は、財閥の総帥ともあろう人物が、自ら  しかも、目立ちにくい国産の社用車で飛んで来る程の大事だったのだ。
 忍には理解し難いが、おそらくそうなのだ。
 佳月の言う処の「嫌な思い」とやらも、精神的なダメージがと言うレベルで収まらない様な何かがあるのだろう。
 だからこそ、彼は運転手も付けずに一人で駆けつけたのだろう。
 おそらく、彼の弟の為に  
「弟とは、少しは話せたのかい?」
 思い出した様に、佳月が口を開いた。
「え? ああ、はい。  昨日の夜に、少し…」
「どうだった?   なんて訊いたら、結論を急かしているみたいになるかな?」
「あ…いえ、そんな事は無いですが…」
「そうか。  君自身は、何か見出すべき物はあったかい?」
「…いえ、それも特には…。ただ、志月が  判断する為の時間が欲しいと言ったので…」
「そういう風に言ったのか、あいつは」
 佳月が呆れた声で言った。
「はい。志月がそう言うなら、俺はそれで良いから  
  ふん…困った奴だな」
 彼が眉を顰めたのは、忍に対してか、弟に対してか。
「今度は俺の方が質問しても良いですか?」
「うん? 良いよ」
「どうして、佳月さんは…俺みたいな存在を認めるんですか?」
 宏幸の家で会ってから、不思議でならなかった。
 どう考えても不自然だ。
「…随分はっきりと訊くのだね。私の答え如何によっては、かなり痛烈な言葉を投げかけられかねないのに」
「そう…ですね」
「考えていなかった?」
「いえ、そんな事は…」
「まあいい。それでは話そうか、何故私が君の存在を認めるか  
「……」
 忍の身体が一瞬固くなる。
 自分で質しておきながら、おかしな事だ。
「なに、ごく単純な理由だよ。弟が  志月がそう望んでいるから。それだけだ」
「それは、俺も俺の為とは思ってませんが…」
「…それと、罪悪感があるのさ。救う事の出来なかった少女と、その無力さや責任を一人で背負ってしまった弟にね」
「……」
「志月の恋人がテロで殺された事は?」
「…知っています」
「その時、うちにも身代金の請求がきてね。犯行グループは、その少女が志月と浅からぬ関わりのある人間だと知っていた様だった。だから、うちへ要求を寄越したのだろうね。  と言うよりは、志月と関わっていた為に、ターゲットにされてしまったんだ。ところが…その要求を、知らない間に母が拒否してしまっていたんだ。
 結果的には、おそらくその所為で…少女は帰らぬ人となってしまった。」
「そんな…」
 その話を聞いて、先刻佳月が忍に言った「嫌な思い」がどの程度のものか、推し量る事が出来た。
(それは、飛んで来るよな…)
 まさか生命が危険に晒されるレベルとは  
 背尾篠舞が、そんな死に方をしていたなんて思いも寄らなかった。
 彼女は、婉曲にだが志月の身内に殺されてしまったなど。
 忍は背筋が冷たくなるのを感じた。
 それを知った時の志月の絶望を、今更思い知らされた。
 何処か遠い所に心を置いてくるしかなかった、その事実が初めて分かり易い形で目の前に現れた。
 そして、やっと佳月の考えが理解出来た。
 弟の抱いた絶望に対する罪悪感  それが佳月の一連の行動の理由だったのだ。
 だから、彼は志月の望む事を受容し続けてきたのだ。
 単純に自分の弟を甘やかしていた訳ではなく、そこには自分自身の後ろめたさが潜んでいた。
「すみませんでした…俺、かなり立ち入った事、訊いてしまったんですね」
「立ち入った  って、君自身が無関係じゃないじゃないか。今のは君にも知る権利がある話だ。むしろ、今まで知らせないでいたことの方が問題なくらいだよ」
 確かに、その絶望を以って志月は忍の  「ゆき」の前に現れたのだ。
 無関係ではないのだろう。
「だから、勝手を言うようだけれど…弟が望むのなら変わらず傍にいてやって欲しい。その代わり、あいつがそう望まないのならその責任は私が持つ。  要するにそういう事なんだよ。私が過日君に申し出たのは…ね」
 真剣な声で佳月はそう言った。
「私の、あまりに身勝手な我侭なんだ」
 運転中の為、その顔はルームミラー越しに確認するしか出来なかったけれど、少なくとも揶揄っている訳では無い事は、忍にも分かる。
「はい  
 短い受容の言葉を、忍は口にした。
 そういう事なら却って受け容れやすいのだ。
 自分自身に都合の良過ぎるだけの申し出よりもずっと  
 佳月の身勝手な我侭とやらは、忍の持っている想いと同じものだったから。
 そのエゴイズムはむしろ、忍の中にもあるものだったから。
 彼と忍は、同じ人間を守ろうとしている。
「一つだけ…約束してください」
 しかし、望むものが同じでも、それには一つだけ譲れない条件があった。
  ? ああ」
「志月は、俺に判断する時間が欲しいと言ったんです。もし、その時が来て  志月にとって俺が望ましくない存在だと結論を出したら…どこか二度と会わないくらい、遠くに行かせて下さいね?」
「それは…。それで、君は…良いのかい?」
「その方が良いんです。  いっそどこか外国でも良いから、偶然にも顔を見たりしない様な遠くへ…それだけ約束して下さい」
 そばにいたい気持ちの裏で、いつも考えていた事だ。
 忍の考える、自分が傍にいる事のリスク  それは、ただ彼の立場が親族内で悪くなるなどと言う外的リスクだけでは無い。
 自分が傍にいる事で、彼女の記憶が戻る危険も孕んでいると言う事。
 その時は、おそらく彼は篠舞の事と、忍の事と、二重に傷を負う事になると言う事。
 だから、もし彼が望まないのであれば、自分は二度と会うべきではない。
 忍はそう考えた。

(…それに、望まれていないのに傍にいられる程、俺は強くない  

  分かった。…約束しよう」
 佳月はすんなり忍の約束を受け入れた。
 ホッとした。
 望まれない場所に留まる事だけは、避けたかったのだ。
「あれ? そう言えば、どこまで行くんですか?」
 ふと気が付けば藤ノ谷駅はとうに過ぎてしまい、今この車は高速道路を都心に向かって走っていた。
「このまま川島君の家まで送るよ」
「え!? いえ、あの  どこか適当に降ろしてください」
「どうせ会社も都内なんだ。ついでだよ」
 佳月が穏やかに微笑んだ。
「ついでって…」
 明らかについででは無い事ぐらい、いくら忍でも分かった。
「これでも社長さんだからね、時間の自由は利くのさ」
 冗談めかして片目を瞑る。
「わっ! 運転中ですから!!」
 しかも高速道路だ。
「ははは、ごめんごめん」
 佳月はまるで気にしていない様子で運転を続けた。

 契約成立。

 その日、忍と佳月の間に奇妙な約定が交わされた。

  それを望むのなら。

  必要な存在であるなら。

  それが分かるなら。

  その限り共に在ると誓う。

  もし、そう望まれないのなら。

  瞬く間に掻き消えよう。

  消失する、奇術師の様に。

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